2002年6月分
2002.6.27
ちょっと良いことをした。
今朝の出勤途中での出来事だ。職場の最寄駅から歩いているときのこと、普段から割とボ〜ッと歩いている私だが、今朝も同じような状態で歩いていた。前方に何やらもがいている人がいる。雨だというのに傘を放り出し、地面に横たわり、ガードレールに捉まっている。頭の中を現実に引き戻してよく観察すると、それはレインコートを着た「お婆ちゃん」ではないか! どうやら何かの拍子に転んでしまい、立ち上がろうともがいているようだ。
早速駆け寄って、優しく「大丈夫ですか?」などと声をかけながら助け起こした。素早く外傷をチェックしたが、目に見える範囲での出血はないようだ。心配なのは内側の怪我なのだが、これは直ぐには分からない。「痛いところがあれば、病院へ行ってくださいね」と声をかけた。少し耳が遠いらしく、2度ほど同じことを繰り返さなければならなかったが、伝わったようだ。
「大丈夫。ありがとう」
「気をつけてくださいね」
という会話の後に別れたのだが。既に70歳はとうに超えた感じのお婆ちゃん、何より私に驚きと一抹の寂しさと哀しさをもたらしたのは、彼女の「軽さ」であった。今思い返してみても、なんとなく涙ぐみそうになるような、何とも表現し難い感情だ。可哀相だとか、歳は取りたくないだとか、そういったネガティヴな方向へ向かっていく感情ではないのだが。護られるべき、あるいは自分自身が護るべき存在として、改めて認識したというところであろうか?
老人への暴力行為や詐欺事件がニュースに上るようになって久しいが、そういうことをする輩は「許すべからず」な存在である。どうせならもっと悪どい連中に対して暴力を振るったり騙したりするべきだろう。弱者をいたぶるような行為は、我慢ならない。
ただ、私の人相や醸し出す雰囲気が余りにも凶悪であったため、お婆ちゃんをビビらせてしまったのではないか? ということが気がかりである。
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久しぶりに、邦楽のCDを買った。
1枚はモンパチことモンゴル800。
ちょっと激し目のリズム(日本の若者が特に好むような)をベースとした、喧しい系(これまた日本の若者が特に好むような)のサウンドにラヴソング、というとありがちな音楽なのだが。このモンパチ、沖縄県出身のバンドで、島への思いやメッセージを織り込んだ、ちょっと変わったヤツらだ。一枚を通しで聴くと、好き嫌いもあるのだろうが、ちょっと飽きるかもしれない。しかし、詩の内容を追いかけていけば、かなり楽しめるバンドでもある。
もう1枚は、前々から気に入っていたオレンジ・ペコー。
デヴュ曲(やわらかな夜)がスィング・スタイルのワルツ(3拍子)だったため、たいそう気に入ったユニット。CD全体はやはりジャズっぽい雰囲気に溢れていて、好感が持てる。4ビート、ラテン・リズムを中心としたアレンジは洒落ていて、最後まで飽きずに聴ける。エゴラッピンのわざとらしい重さと雰囲気作りと比較すると、すべての表現がストレートで、私自身としてはこちらの方が好きだ。ただ、よくよく聴いてみると、ヴォーカルはどの曲も同じような歌い方と雰囲気で、こちらの方はもう少し修行が必要か? あまりにもストレート過ぎるため、大学あたりのジャズ研が作ったアルバムのような気がするのは私だけか?
ストレートという意味では、今回購入した2枚は共通すると思う。どちらも気持ちが良いほど表現がストレートだ。珍しく「当たり」の邦楽CDであった。
2002.6.24
サッカーが、なぜ世界に受け入れられるのか?
もちろん、ルールが簡単である、という理由が非常に高いウェイトを占めることは言うまでもない。ゴールキーパーに関する細かいルール改正などは割と頻繁に行われているが、それを差し引いても、サッカーのルールと言うのは20項目ないと言われている。したがって、基本的な約束事(手を使ってはならない)を理解すれば、誰でもその日からサッカーを楽しめるのだ。
また、ルールによって縛られることが少ないということは、それだけクリエイティヴなプレイが出来ることを意味する。あれはダメ、これはダメという規制が少なければ少ないほど、選手が自由にプレイできるのだ。さらにはボールデッド(いわゆる試合が止まっていること)の時間が他のスポーツと比べて極端に短いことも、クリエイティヴなプレイが出来る要因の一つだろう。
こうしたルールの面だけでなく、サッカーが一般に広く受け入れられる性質を持つに至った経緯を考えると、非常に面白いことが分かる。サッカーの母国イングランドの大学には、いわゆる「サッカー部」というものはない。サッカーは「庶民のスポーツ」という位置付けがなされているのだ。大学生が嗜むべきスポーツは「ラグビー」とされている。それ以上に究極のスポーツとして位置付けられているのが「ボート競技」だ。
イングランドやアイルランドにおいて、人々がパブでサッカーを観戦しながら大騒ぎする場面がニュースなどで報道されるが、これは庶民が楽しむスポーツということを如実に現しているといえる。パブは、地域の社交の場であるから、集まってくる人々は当然庶民だ。地域の人々が集まり、様々な話題を語り合い、サッカー観戦しながら日ごろの鬱憤を吹き飛ばす。こうした背景がサッカーを庶民のスポーツとして定着させているのであろう。
サッカーとラグビーを比べてみて分かるのは、その専門性だ。サッカーにはプロがあるが、ラグビーには長らくプロがなかった。これは、裕福な家庭の人々がラグビーをやっていたから、ラグビーを生活の糧としてする必要がなかったことを意味する。したがってサッカー選手は庶民の出身者が圧倒的に多い。プロとなって大金を稼ぎ、家族や一族を楽に生活させてやろう、という図式なのだ。
今大会で人気を独り占め? しているイングランドのベッカム選手も「ベッキンガム宮殿」などと呼ばれる豪邸を構えていることは広く知られている。アルゼンチンやブラジルの選手たちとて貧しい出身が多く、一人のサッカー選手の稼ぎで一族郎党の面倒を見ている者が殆どだ。フランスのジダン選手も、アラブ系の出身で、やはり貧しい階級の出身であることが知られている。
こうしてサッカーは、ルールや道具の簡潔さと、庶民に親しまれる土壌によって世界に浸透したのだろう。
2002.6.19
料理において、糖分の投入は非常に効果的である。
焼き物では、例えば「照り焼き」のいわゆる照りを出すのが糖分である。砂糖や味醂を加えるのが一般的だが、そこに「蜂蜜」や「マーマレイド」を加えることによる照りには、独特の艶が出る。また、味にも微妙にコクが出て、非常に美味いことは言うまでもない。以前にも書いたリブ・ステーキ。これなど蜂蜜を加えると、まさに「テカテカ」というほどの照りが出る。蜂蜜の替わりにマーマレイドを加えると、オレンジの皮が微妙な味わいを出し、独特のコクを出す。
煮物においても、砂糖や味醂を加えることによって照りやコクを出すことは知られている。ここにも蜂蜜を加えると、独特の照りとコクを出すことができる。さすがにマーマレイドというわけにはいかないが、和風でない煮物で、照りやコクを出すには効果的かもしれない。また、沖縄地方では通常使われている黒砂糖(黒糖・コクトウと読む。通常は精製されておらず、塊となっている)も、独特の照りとコクを出す調味料といえる。特に肉料理との相性は非常に良く、照りやコクだけでなく肉自体を柔らかくする効果もあるようだ。
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トマトと相性の良いものを考えてみた。
この場合、トマトソースやトマトと一緒に煮込むなど、煮物が中心となることは言うまでもない。こうして考えてみると、白身の魚はほとんどのものが相性がよいと思う。カジキやタラ、ヒラメやカレイ、イワシ……それに反して赤身の魚は、見た目だけでなく味の方もあまり芳しくない。シーチキンなどのように一つ手間が加わったものをトマト・ソースと合わせるのであれば、信じられないぐらいに相性が良くなる、という面白さもあるから、赤身の魚が一概に相性が悪いとも言えないのだが。
肉ではどうだろうか? 鶏、豚は完璧と言ってよいほどの相性の良さだ。フライパンで大蒜、鷹の爪、玉葱と共にさっと炙り、トマト・ソースあるいはトマトの缶詰(ホールの場合、実は握り潰す)を加えて煮込むのだ。これはもう抜群の美味さで、残ったソースはパスタと共に食べれば、一粒で二度美味しい思いを出来る。イタリアンな味の演出は、おそらく他のその国の料理よりも簡単に再現できると考えているのは、私だけであろうか?
これに反して、牛や羊は少々手間がかかる。上記のような調理方法で食べても、美味い! という気分にはならないのだ。肉自体がもつ独特の風味や香りが、トマトと合わないのだろう。しかし、牛挽肉はトマト・ベースの料理(チリ・ビーンズなど)には良く合うし、元から考えればカレーもベースはトマト・ソースである。
こうして考えてみると、牛と羊は赤身の魚と同じで、肉に一つ手間をかけることによってトマトとの相性がよくなる。やはり風味や香りが強いから、スパイシーな味付けをしなければ、トマトの風味や香りが負けてしまうのだろう。カレーのように、ベースはトマトでもまったく違った食べ物に変化させるような手間が必要なのだ。
2002.6.13
天気には敏感な生活を送っている。
ウィーク・デイはそれほど関係ないのだが、週末の波乗りのためには一週間チェックを欠かさないようにしないとならない。太平洋上で発生や移動をしていく低気圧や台風の推移を見守り、週末にヒットするウネリの大きさを予測したり、風がどの方角を向いて吹くかをチェックするのだ。こうした自分なりの予測に欠かせないのは、衛星からの雲の写真ではない。古風な? 「天気図」である。
天気図に記された等圧線の間隔や向きによって風の強さや方向は予測できるし、遥か彼方の低気圧の規模や動きからウネリの大きさや方向も大体予測できるのだ。波の元となるウネリの最初は、風によってできる小波である。これが離合集散を繰り返しながら延々と海を伝わり、陸地近くで浅瀬に乗り上げるときに波となるのだ。したがって、大型の低気圧や台風など、風を起こす大元が大きく強いほど波は大きくなるのだ。
こうした「セルフ天気予報」は、学生の頃にバスフィッシングをはじめたときから慣れ親しんでいる。バスフィッシングも、天候や風向き気温、水温が釣果を大きく左右するから、天候の予想は非常に重要であった。昔から、低気圧が近づくことによって、水中の圧力が変化し(すなわち水圧が低くなるから)、浮き袋が膨らんで魚が水面近くに浮いてくる……といわれている。確かに低気圧が近づいてくるときの方が、通過した後よりも釣果は大きかったような気がする。
もちろん私は専門的な勉強をしたことのない「似非気象予報士」だから、予想の的中率は50%を下回る。「明日は良い波が立つぞ!」などと大見得を切って出かけたにもかかわらず、まったく波がなかったりして、奥さんからは嘘吐き呼ばわりされている。特にここ数週間、私の予想はハズレ続けているから、最近の予想の説得力は皆無に等しい。
職場でも朝イチにチェックするのは、ネットでの天気だ。「台風が来てますね〜」などと嬉しそうな声をあげると、周囲の反応は「?」が飛び交う。「どこに?」などと訊かれても「遥か沖合い……」などという回答だから、周囲はさらに「?」が激しく飛び交うことになる。サーフできる波が基準の気象予想であるから、私の職場での予想は常に混乱を招くことになり、そのうち誰も耳を貸さなくなってしまった。
こうして職場だけでなく家庭でも相手にされなくなった私の気象予報だが、そのうち百発百中の確率となり、誰もが敬意を表するようになるだろう……と信じて、予想に精進するつもりだ。
2002.6.11
なぜか、転職のお誘いを続けて受けた。
一つは企業研修のインストラクターにならないか、というもの。そこに勤める知人から、私に向いているという理由で採用試験を受けてみないか? という電話が入った。しかも出張先で肉体労働中に。本質的に、人から何かを指導されるのは嫌いだが、何かを指導するのは確かに向いていると思う。しかし、人嫌いという厄介な性格が、見知らぬ人に指導できないことを物語っている。ましてや、今の私の坊主頭に髭にピアスというスタイルでは、採用試験の最初の段階で落とされるだろう。知人は最近の私の姿を見ていないのだ。
お誘いを受けたこの会社、研修という分野では老舗の会社で、私もかつて新社会人であった頃と中堅になる直前に、ここの研修を何度か受けたことがある。その感想から判断するに、内容的には決して面白いものではなかった。というのも、専門性を要求される分野や事柄に対しては、インストラクターは完全に無力なのである。現場を知らない人間に、何だかんだと指導されることにかなり不満を覚えた記憶がある。
新人研修ならともかく、中堅以上の研修では、このような専門性や現場で培った経験・知識というものが必要である。方法論を学んで、そこに専門性や現場の特殊性を自分で盛り込めばよい、といってしまえばそれまでなのだが、やはり研修を受ける側としては直結したものであることを期待する。一般的な理論や方法論を聞きたいがために研修を受けるのではないのだ。
営業的な研修の場合、顧客役と営業マン役に分かれての「ロールプレイング」というのをやる。このロールプレイングが私は大嫌いだった。決められたセリフなどすぐに忘れてしまう、アドリヴ人生を歩んできているから、商談での会話もアドリヴなのだ。そのときの会話の流れや話しの進み具合によって、商談であってもどこまで行くか分からない。大物を売ろうと思って行ったにもかかわらず、小物の話ししか出なかったり、ご機嫌伺いに行ったのに思わぬ大物の話しが出てきたりと、会話は自分が意図した方向へ進むとは限らない。
また、受けたくて研修を受ける人ばかりではないことも忘れてはならない要素である。私もそうであったが、研修そのものを斜めに見ている人は少なくない。こういった人々を叱る、ということはなかなか難しいだろう。何せ、研修を受けに来る人はお客様なのだ。私の人生において、悪いことや気合の入らないことをしているときは、常に殴られてきた。スパルタな環境で育ってきたのだ。したがって、自分が指導する立場になった場合、どうしてもスパルタなノリを引きずってしまうだろう。
本質的な人間嫌いが、誰かを指導することなどムリなことなのだ。この話しは断ることにするつもりだ。
もう一つは、クライミング・ジムを経営しないか? というお誘い。
現在、静かにその魅力を発揮しつつある「フリー・クライミング」というスポーツがある。命綱は別として、自らの手と足だけで、何の道具も使わずに岩壁を登る、非常に魅力的なスポーツだ。街中に岩壁があるわけではないので、屋内・屋外を問わず人工の壁と手がかり足がかりを作って練習や試合をする「クライミング・ウォール」というシロモノがある。大阪に出張した際、このウォールを輸入している会社の社長から、東京でジムを経営してみないか? というお誘いを受けたのだ。
これは大変魅力的な話しである。かの社長のジムで、実際にクライミングを体験した上で私の面白がりようや才能(これは本当かどうか分からない)を見て勧めてくれた話しだから、かなり私向きの話しであることは確かだ。不況のために閉鎖された工場などの敷地を借りて、ジムにするのだという。「まぁ、2000万もあればできますよ」と気楽に言ってくれるのだが……。事業を興そうと考えたときの資金としては確かにそれほどの金額ではないのかもしれないが、既に様々なローンを抱える身としては、ちょっと二の足を踏む感じだ。
ジムを経営していくとなれば、ビジネスマンとしての経験や知識だけでなく、クライマーとして身に付けておかなければならない技術や理論が山ほどある。こうした準備にどれだけの時間がかかるか? 充分なテクニックや経験を身に付けたときには、もう年寄りになってしまっている可能性もある。特に、技術ではカヴァーしきれない経験の部分は、多くのクライミングをこなしていく過程でしか体得できないものである。
体力も吸収力も人並み以上だとは思うのだが、先の予測が余りにも不透明である。
こうして考えいくと、サラリーマンとは本当に「潰しの効かない」職種である。転職しようにもサラリーマンしかないのである。確かに「脱サラ」などといってまったく別の分野へ転職していく人もいる。しかし、それはタイミングや向き不向き、資金など様々な要素がうまく噛み合った場合に成功するのであって、本当の意味での成功を修められる人は少ないと思う。こうした人たちが失敗とまでは行かなくとも、カツカツの状態でやっていけるのは、好きなことをしている、という一点で留まっているのではないだろうか?
「手に職を持つ」ことの方が余程潰しが効くのは確かである。私の友人に自動車整備のヴェテランがいる。先ごろ勤め先の工場が倒産したが、テレテレと就職活動をしていた割には、僅か2週間で次の職場が見つかった。これは、自らの腕が要求される「職人」の世界ならではのことであろう。腕さえ良ければ、景気などに左右されることもなく引く手数多の状態になれる。
これに比べればサラリーマンなど儚いものだ。サラリーマンのなり手は、掃いて捨てるほどいる。誰を選んでもそこそこの仕事はこなすから、採用する側が好きなように選べる。腕一本でのし上がっていくことが可能な職人とは根底の部分が違うのだ。職人であれば、自らが仕事を選ぶことも可能なのだ。
以前にも書いたのだが、私はタイル職人や壁貼り職人になりたいなどという希望がある。決して諦めているわけではないが、書くだけならタダだから、いくらでも書くことが出来る。例えば、プロのサーファーになるとか……。
いずれしろ、前向きなのが良いのだと思う。チャンスがあれば、いつでも狙えるように。
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