2002年4月分


2002.4.30

今回購入したニュー・ボード。

今まで使っていたハワイのローカル・ブランド(Classic Longboard。ワイキキではメイジャーな存在だ)が、ハワイの波を想定して作られていたことは言うまでもない。いわゆるコーラル・リーフ(珊瑚礁の海底)で割れる、パワーがあってほれる波だ。そのため、ロッカーこそきつくないが割と細めのシルエットは、いかにもほれた波やサイズのある波で強さを発揮しそうな感じだ。それだけでなく、ワイキキはそれほど大きくも速くもない波が一年のとんど占める。そんな波にも対応できるように、ロッカーをフラットに近くし、厚みをつけることで浮力を増し、素早いテイクオフと楽なノーズライドをも年頭においてデザインされている、まさにオールラウンドな一枚だ。

さて、今回購入したボードである。

カリフォルニアのDewey Weberというブランドのスタイリストというモデル。大きく、重く、長い、という完璧なクラシカル・スタイルのボードである。こういったボードの特徴は、非常に浮力があるために沖へ向かうパドリングやテイクオフが非常に楽だということだ。パドリング・スピードでいけば、Classic Longboardの1.5倍といった感じだ。さらには、長いからそれほど気にはならないのだが、巾もかなりの広さである。そのため、ライディング中にボードが安定する。ノーズライドが楽にこなせるのだ。

ロッカーは、ほぼ「まっ平ら」に近いほどフラット。しかし、ビッグ・ウェイヴに対応するために、ノーズ部分にかなりのロッカーを設けている、特別仕様だ。殆どのモデルがこのノーズのロッカーは入っていないのだとショップの店員は言う。確かに、店内に置かれている同モデルには、このノーズ・ロッカーが施されていない。しかし、やはりビッグ・ウェイヴに乗るなら、このノーズ・ロッカー・タイプが良い。日本の海でも、台風や低気圧の影響でそこそこの大波はやってくる。

実際に海へ入ってみると、このニュー・ボード、予想以上に(見た目以上に)大きい。先ずはその巾に圧倒される。脇に抱えようとしても、腕の長さが足りないのだ。仕方がなく頭の上に乗せて運ぶ。この巾は、しかし、海の上では抜群の安定感となる。ボードの上に正座するようにして行う「ニーパドル」も安定を崩すことなく、楽々とこなせる。

この抜群の浮力は、確かにパドリング・スピードとテイクオフの速さに素晴らしい威力を発揮する。しかし、良いことばかりではない。波が目の前でブレイクした場合、その波を回避する方法はいくつかある。ボードの上で腕立て伏せの体勢になり、スープ(波が崩れた白い飛沫の状態)をボードと身体の間を通してやる、プッシング・スルー。これは比較的小さな波でやる。これは全く問題ない。

問題なのは、腕立て布施の体勢になっても、スープの高さが自分よりも高い状態の場合だ。要は大きな波が目の前でブレイクしたときのことなのだが。こういった場合には、身体ごとボート共に裏返しになり、ボードの上をスープが通るようにする、ローリング・スルーをする。このときのポイントは、ノーズの近くをホールドすることと、テイルを足で持ち上げてやることだ。テイルを持ち上げることによって、波やスープの下へボードを入れるようにするのだ。こうしないと、ただ裏返っただけでボードを波に攫われてしまう。

もっと波が大きくなると、身体ごとノーズと共に波の下へ潜る、ドルフィン・スルーをする。しかしこれは、ロングボードの場合、短くて軽いボードでしか出来ないだろう。広い全幅と重さが、こうした咄嗟の反応が要求される状況で不利となる。その巾と重さが仇となり、とにかく取り回しがきついのだ。波待ちで沖を向いた状態からクルリを向きを変えるような場合は、浮力を利用して上手に回ることは可能なのだが……。

さて、テイルの形状はラウンド・ピンテイルと呼ばれる、ピン・テイル(尖ったテイル)とスクエア・テイル(四角いテイル)の中間の形だ。ピン・テイルの一種なのだが、全体的に丸みを帯びているタイプで、切り替えしが早く、大きな弧を描いて曲がる。今までのスクエア・テイルは、テイルの四角い角を支点としたピヴォット・ターン(一点で曲がる)が基本であった。この特性は、ピン・テイルがゆったりとしたクラシカルなターンであるのに対して、スクエア・テイルは、もっとラディカルな動きをすることができることを意味する。

実際にライディングしてみると、このボードの特性を引き出すことが結構大変であることが分かる。重く浮力がある、ということは、ボードを沈めるという作業に大変なパワーが必要なのだ。ロングボードの場合、ボードのテイルを沈めることが一つの基本動作となる。これが出来ない限り、テイクオフしてもボードは真っ直ぐしか進めない。テイルを沈めておいて、左右どちらか行きたい方向へ体重をかけてやることで、ボードはノーズを振りながら方向転換するのだ。

今まで乗っていたボードと比べると、重さにかなりの違いがあるから、いつもの感覚でターンしようとすると曲がってくれない。では、とばかりにグイッとテイルを沈めてやると、今度は沈めすぎてストール(失速)してしまう。力加減が難しいのだ。慣れてしまえば何と言うこともないのだが、波の上でやっていることである。波は刻一刻とその表情を変えるから、それに対応しつつの練習は結構ハードだ。ターンさえこなせるようになれば、このボードの特性は充分体感できる。抜群の安定性を生かして、ボードの上でかなりのことができるようになるだろう。

まだまだ本格的に慣れてきたわけではないから、充分に乗りこなすところまでは行かないが、ある程度の勘所は掴んだつもりだ。今週末からの千葉での合宿で、もっと良い状態になるようにするつもりだ。


2002.4.26

サーフボード購入のためのお金をおろしてきた。

私の買い物のスタイルは「キャッシュ・オン・デリバリ」が基本である。最近は殆どしなくなった「アメ横パトロール」でも、良い品や欲しい品をパトロール中に見つけておいて、最後に銀行に寄ってお金をおろしてもう一度店を回って狙いをつけておいた物を購入する、というパターンだ。在庫が少なく、回っている間に買われてしまいそうな物は、わざわざ別の商品の間に隠したり、親しい店ならばキープを頼んだりして、あくまでも現金で購入することにしている。

もちろんカードで支払いをしないわけではないのだが、現金で支払いを済ますと「買った!」という充実感がカードの場合よりも強いのだ。特に身に着けるものやサーフボードや自転車などの、楽しみのための物は、現金に限る。海外で買い物をする場合は、国内とは全く逆で殆どの支払いをカードで済ませる。これは現金を持ち歩くことの危険性が日本とは比べ物にならないほど高いことが上げられる。

国内でカードによる支払いをする場合はどうであろうか? これは食事やスーツ、シャツやタイなどの形に残らない物や消耗品への支払いが圧倒的に多い。このようなその場で見えなくなってしまう物や長く手元に残らないものには、目に見えない形での支払いが相応しい。どうせそのうちなくなってしまうのだ。

このような、面倒なポリシーや手続きを踏んで買い物をする私に対して、奥さんの場合は圧倒的にカードでの支払いが多い。彼女の場合、衝動的に欲しくなり間髪入れずに手に入れたい、というパターンなのだ。そのくせ財布の中にはキッチリと現金も用意されていて、1万円以下のような一定の基準以下の金額は現金払いなのだ。欲求と衝動で買い物をするくせに変なところで計算高い、女性らしい(久しぶりの問題発言)パターンである。良く言えば、キャッシュレス文化をキッチリと取り入れた、身軽でフットワークの良い買い物上手だ(フォロー)。

しかも彼女の場合は、(これまた女性らしいといってしまったら問題か?)かなり高額な物品を衝動的に購入することが多いのだ。私が気づかないうちに海外有名ブランドのバッグや靴、スーツなどがワードローブに増えているのだ。それも結構頻繁にだ。

私は、おこずかいを貯めて欲しかったプラモデルを買うような感覚で買い物をする。カタログやリストを眺めて、ああでもない、こうでもないと能書きを垂れ、我慢に我慢を重ねた挙句、意を決して大金を懐にワクワクしながらお店へ走る……というパターンが好きだ。折角駆けつけてみたら、売り切れでした……などという哀しい結末を迎えることもあるのだが、このようなパターンの方が「ロマン」があって良いではないか。

明日、大金をポケットにワクワクしながらサーフショップへ向かう。今晩は嬉しく寝眠れないかもしれない。


2002.4.25

人と付き合うこととは、どういうことであろうか?

よくいわれることに「お見合い」と「恋愛」の結婚の違いがある。

お見合い結婚の場合は、いわゆる「加算」する結婚生活であるといわれている。お見合いの際に、実際に会って話しをしたり、その後付き合ったりしながら最終的に結婚に至るのであるから、0点からスタートということはないだろう。しかし、熱烈な恋に落ちてというわけではないから、平均点くらいからのスタートだ。相手の良いところも悪いところも新しい発見として加算し、最終的にプラスになれば良い、という「終わりよければ全て良し」的人生だ。

これに対して恋愛結婚の場合はどうか? 100点満点からスタートし、一緒に暮らさなければ分からなかった様々な相手の弱点や悪いところばかりを加算していく。マイナスばかりを加算していくから、これは「減算」する結婚生活となるだろう。恋愛結婚で最終的に離婚……という状況になるカップルの場合、大抵の場合「こんなハズじゃなかった」なんて言葉が出てくる。最終的に何点残るか? が問題となるスリリングな関係といえるかもしれない。

これは、なにも男女関係だけではない。加算と減算は人間関係の基本ではないだろうか? はじめは好きでも嫌いでもない人に対して、加算が続けば評価は上がるし、減算が続けば評価は下がる。あまり密でない人間関係では、この加算の部分は「信用」という言葉に置き換えることができるだろう。

営業マンは、顧客のところへ足繁く通うことによってコツコツと信用を勝ち得ていく。理不尽とも思われるような要求や依頼を我慢してこなしていくことによって彼の信用は少しずつ上昇していく。この信用の加算がある一定のレヴェルを超えると、顧客と営業マンの間柄は非常に良いものとなり、取引もスムーズに運ぶようになる。

人間関係をはじめから不信に思っていたり、余程変わり者であったりするのでなければ、初対面の人との関係をぶち壊すような運び方をする人はいない。時事問題や仕事、趣味など様々な話題を提供し合って共通点を探る。そんな中から少しでも加算できるべき点はないか懸命になる。そういった意味では、人間は誰しも善意を表面に出していることになる。

一方、減算の場合は少し事情が違ってくる。余り快く思っていない人物に対して、少しでも気に食わない点を見つけてしまうと、そこから派生して次々とマイナス要因が「芋蔓式に」出てきてしまう。減算が減算を呼び、近くにいるだけで、姿をチラリと見つけるだけで気分が悪くなってしまう。これだけ嫌ってあるいは嫌われてしまうと、信用を回復することはほぼ不可能となってしまう。

信用はコツコツと時間をかけて築いていかなければ得られないが、信用を落とすのは簡単なのだ。たった一度の大きな失敗が、それまで築いてきた信用を瓦解させてしまうことなど茶飯事である。

公の場での人間関係は、概ねこんな感じで築いたり崩れたりする。しかし、プライヴェイトの人間関係においては、もっと直感的な部分やエゴイスティックな取捨選択があるようだ。公の場では我慢して付き合わなければならないが、プライヴェイトまで付き合いたくないという人物は確かに多くいる。

共通の趣味を持った友人や、学生時代に苦楽を共にした友人などは、損得抜きで離れ難い。公の場では「気が合う」という理由だけではダメなのだ。そこに能力やメリットをもたらす何かがなければならない。これに反してプライヴェイトでは損得抜きで許される存在というのがある。だからこそ不快な人間、気が合わない人間は、巧妙にして容赦なく切り捨てられていく。

こうして選ばれ、吟味された人間関係の場合、その結びつきの強さは非常に強い。殴り合いの喧嘩になるほど対立したとしても、どちらかが折れれば何事もなかったかのごとく関係は修復される。ある時期、どんなに疎遠な関係になってしまったとしても、再び集まればその日から下の関係が復活する。このような関係の中では、多少のいざこざは笑って水に流すことができるし、感覚的にトラブルを避けるようになる。

私のように、人間関係に対して本能的に「怯え」をもって生きている人間は、直感的に合う合わないを察知する能力が発達する。無用なトラブルを避けるためだ。つとめてニュートラルに接してはいるが、心の中では相手が合うタイプなのか合わないタイプなのかはしっかり確認している。その場限りの一度だけの人間関係というのは、プライヴェイトの方が遥かに多いだろう。

人間関係で嫌な思いをしなければならないならば、良い思いをするメリットを切捨てでも孤独に狭い世界を護っていこう、というのが私の考え方であり生き方になっている。


2002.4.23

昨年ハワイで購入し、我が愛機として活躍していたサーフボードが入院した。

以前にも、テトラポットの上で落としたりしていくつかの傷を作ってはいた。それらについては、自分の力でリペアが可能な範囲の、いわゆる「軽傷」というヤツであった。ところが今回の場合は、ちょっと自分ではリペアできる範囲を超えた「重傷」あるいは「破損」というレヴェルのイキ方になってしまった。

砂浜で割れる波、いわゆるビーチブレイクは、川や波、カレントの影響でできる「サンドバー(砂洲)」の位置や形がポイントとなる。つまり、緩やかに岸へ向かって浅くなっていく線上にサンドバーが出現することによって、波の円運動が上方向にシフトするのだ。こうすることによって、ウネリは大きく盛り上がり、波となって割れる。

しかし、サンドバーは当たり前だが、砂で出来ている。そのため常に形を変え、移動しているのだ。それほど大きな移動はないのだが、毎日毎分毎秒、微妙に変化している。これが原因でビーチブレイクノ波は変化に富んだ面白みがあるのだが。これがリーフ(岩やサンゴ)のボトムになると、いつも決まった場所で、ほぼ決まった形に割れることになる。ボトムの変化がないからである。リーフボトムの海でも、河口が隣接していると、リーフに沿ってサンドバーはできる。しかし、ビーチよりももっと流動的で、決まった状況にならなければできることはない。

さて、ボードが「負傷」した状況である。

サンドバーの流動性と潮の干満が微妙に影響した結果と、私の状況判断のミスが直接的な原因である。潮の干満は、波の形や勢いなどに大きな影響を与える。潮が満ちてくると波は柔らかくなり、より波打ち際に近いところで割れるようになる。逆に潮が引いてくると、波は硬くパワーが増し、ほれ上がった形の良いものになる。潮が引けば引くほど、沖の方で割れることも特徴だ。

今回の状況は、潮が上げてきた中での出来事だった。それまで沖で割れていた波が徐々に岸に近いところで割れるようになってきた。良い波を捕まえて岸近くまで乗り継ぎ、最後にプルアウト(ボードのテールを大きく沈めてクルリと回り、波の裏側へ抜ける行為)しようとしたときである。10インチのフィンがサンドバーの上にさらにコブのように盛り上がった場所に刺さってしまったのだ。おまけにテールには私の体重が目一杯かかっている。さらに悪いことに、ボードを180度回転させるために、フィンを支点にコジってしまうことになったのだ。

プラスティックや硬質の発泡ウレタンなどを主体としたサーフボードは、こうした状況に極めて弱い。一点に力がかかると、あっという間に破損してしまうのだ。哀れ我が愛機は、フィンをボードに固定する「フィン・ボックス」は真っ二つ、ボックス周辺の本体をも大きく破損することとなってしまった。当然のことながら、新調した(この日が海デヴュであった)フィンも根元で折れてしまったことは言うまでもない。

ボードを傷めるトラブルの多くは、持ち運びなどのときにつく比較的軽傷なものが殆どだが、今回のようにライディング中に起こるトラブルの場合、波のパワーやライダーの体重が乗っていることもあって、重傷となる場合が多い。

割とよく聞くトラブルは、ノーズ折れだ。これは、いわゆる「ノーズが刺さる」という状況で発生するトラブルで、テイクオフのときに最も起こりやすい。波のほれ上がるポジションでテイクオフしようとしたときに、ノーズが水中に突っ込んでしまい、ノーズを支点にボードが逆さにひっくり返されるのだ。テール側から波の力とライダーの体重がノーズにかかるから、パワーのある波の場合は、結構あっさりとノーズが折れてしまう。

もう一つ多いのが、今回のような浅瀬でのフィン周りのトラブルだ。私のようにフィンをボトムに突き刺してコジってしまうようなバカはあまりいないだろうが、勢いをつけて浅瀬まで乗ってしまい、フィンをボトムに擦りつけてしまうことによって、トラブルが発生する場面が多々あるようだ。取り外しの効かない、オンフィン(ボードから直接フィンが生えている)の場合は、これによってフィンや根元が破損してしまうことがある。

何はともあれ、地元のサーフショップ(ロングボード専門店)へ直行したことは言うまでもない。ここでの診断の結果、元通りになるということで一安心だ。さらには考えていたよりも遥かに安い修理費で済むようなので、加えて一安心である。さらには、5月の大型連休前には修理が終わるということで、一粒で何度も美味しい状況である。

奥さんは、この店で新たにボードを新調する計画が進んでおり、今週末には待望のニュー・ボードが入荷する。始めたばかりの彼女だが、最近の上達振りには目を見張るものがあり、自分のライディング・スタイルや好みのボードがようやく分かるようになってきた。そういった意味では、彼女にとって今回のニュー・ボードは、かなり思い入れの強い1本となるだろう。

ここ何回かボード選びのたびに訪れていたショップではあるが、私は今のボードがたいそう気に入っているから、あまり店に並んでいたボードに感心がなかった。しかし、愛機の入院、ゴールデン・ウィーク間近、という状況で見回してみると、私の好みにピッタリのボードが何枚か並んでいるのが見えてくる。突如ムクムクと湧き上がる「新しいボード欲しい病」。

私は、いわゆるカリフォルニア・スタイルと呼ばれるオールドスクールのライディングが好きだから、やはりカリフォルニアで作られるボードは非常に魅力的なのだ。ハワイで作られるボードは、やはりハワイの波を意識して作られているから、どちらかといえばアグレッシヴなニュースクール系のライディングに適している。

そういった意味でも、カリフォルニア産のニュー・ボード(奥さんのニュー・ボードもそうだ)は1枚持っていて損はない。修理のために海からショップへ向かう途中、ゴールデン・ウィークに間に合わなければ、1枚買ってしまおう! と思っていただけに、直る、と聞かされても、ああそうですか、とはなかなかいかないのだ。

丁度臨時収入も入ったことだし、奥さんだけがニュー・ボードというのも気に食わない。彼女が買うときに、私も一緒に買ってしまいそうな勢いである。

そうなると困るのが、ボードの収納である。奥さんのボード、入院中の愛機を入れると、2人が一度にニュー・ボード買ってしまうと、ロングボードが我が家には5本というとんでもない状況となってしまうのだ。こうなると室内(リヴィング)は、5枚のボードと3台の自転車にかなりの場所を奪われてしまうことになるのだ。

ツアー用のコフィン・バッグの中には、ビッグ・ウェーヴ専用の9フィートのボードが入っている。基本的にコフィン・バッグは3枚のボードが収納可能だから、常時使うボードは表に出して置ける計算になる。いずれにしても、我が家の収納能力の限界に達しつつあるようだ。


2002.4.17

実に9日ぶりの更新である。

4月になって、年度末の忙しさも終わったか? と思われたのだが、それに輪をかけた忙しさだ。毎日バタバタしている。不景気の影響はこういう場面で出てくるのだ。要は、様々な経費や人件費を削減してしまったため、やらなければならない仕事に対して実質的な労働力が不足してしまうのだ。このため、一人当たりの労働量は飛躍的に増えた。以前なら分担して出来た仕事も、現在では一人で行わなければならない。

ましてや新たな仕事が次から次へやってきて、突破すべき壁の高さは高くなる。今までは人間的な面を見せつつ行うことが出来た仕事も、機械的にこなさなければならなくなってしまい、外部へは結構不評を買っているようだ。なるべく人間的な味付けは残しつつ仕事をしたいと日々思っている。

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どんなことをするにしろ、ある種の「高み」を極めたことがある経験は、非常に貴重だ。

一つの目標に向かって「努力する」ということをキチンと理解していることが一つ。目標に到達するまでには、血を吐くような努力が必要なときが多々ある。根性理論は流行らない、といわれて久しいが、人間、何かを極めようと思ったら、最後は根性なのだ。これは「天才」と呼ばれる、非常に才能を持った人々にも共通する。彼らの場合、人と同じだけ努力すれば2倍3倍と実力が伸びるだけで、努力をしなければならないという点においては、何ら変わるところはないのだ。

目標を達成したときの「喜び」を知っている、ということがもう一つ。血を吐くような努力をし、根性を見せた結果、到達した領域は、一般人を遥かに凌駕している。この到達感や達成感、充実感を知ることによって、次の目標へ向かって再び努力することが容易になるのだ。

こうしたことのほかにも、壁にぶつかったときの克服法や、努力するためのモチベーションをいかにして保つか? といった技術的精神的な面も長けてくる。ある意味、自らを変革していく術を身に着けることになる。これを精神的肉体的オポチューニストと私は勝手に呼んでいるが、到達するためには自分を変えることもするわけだ。

こうして到達すると、精神的にも肉体的にも、修行を修めた僧侶のような清々しい気分に浸ることができる。


2002.4.8

硬い水と柔らかい水。

先日、湘南の海に入ったときのこと。湘南デヴュの奥さんが「湘南の海は、お風呂の終い湯みたいだ」と言った。なるほど確かに、やや白濁りの海水は、垢や入浴剤が混じった風呂の水に似ていないこともない。また「千葉の水は硬い感じがするけれど、湘南の水はフンワリ柔らかい」とも言う。これも言い得て妙である。水温はどちらも大して変わらないから、これは関係ないとして、確かに千葉の海水の方が硬い感じがする。

水は、混じり物が多い方が柔らかく感じるようだ。いわゆる「クリスタル・クリア」なキレイさの水というものは、かなり硬く感じる。これは、肌と水の間にどれだけ不純物が介在するかによる、と考えている。つまり、水が混じり物無しに肌に接する場合、水そのものが肌により多く(というよりは完全に密着する)接することになる。その抵抗感や密着度が硬いと感じさせるのではないだろうか? だからといって、粘度が高いわけではない。キレイな水ほど硬いがサラリとしているのだ。

逆に混じり物が多い水は、柔らかいが粘度が高い。これは、水に砂糖を溶かしていったときのことを考えてみると理解が早い。砂糖をどんどん溶かしていくと、明らかに水は粘度を増す。これが塩の場合は、電気分解であるためにさほど粘度が上がったという感じはしないのだが。湘南などのように、人家が近く(海際まで迫っている)にある場合、生活廃水の影響は非常に大きい。「湘南の海に入ると具合が悪くなる」と湘南以外のサーファーが陰口を叩くのも、あながち間違いではないのだ。

水の粘度に影響を与えるもう一つの要因が、水温だ。水温が高いほうが粘度は低い。前述の砂糖と水の関係を見ても、冷水で溶かすよりもお湯に溶かすほうが多くの砂糖が溶ける。それだけ水の粘度が下がっていることを意味するのだが、このような状況を肌で感じることができるのが南の島の海だ。いわゆる夏の時期のハワイの水は、非常にサラリとしている。水温は30℃に達するから、その軽さは非常に際立っている。ホテルのプール(消毒の塩素なし)と比べても、はっきりと違う。

水のキレイさは、日本とは比べ物にならないから、硬いはずなのだ。しかし、水温が高いために粘度の低さが水の硬さを上回っている感じなのだ。川の水を比べてみても、上流と下流ではその硬さや粘度が違うことは明白だ。汚れた川の水よりも、止水と呼ばれる池や湖の汚い水の方が粘度は高い。止水でも、琵琶湖のように北と南(北は広大でクリア、南は狭く汚い)で全く違う水質を持っている湖など、その比較は非常に面白い。

自分が関わる水とその環境を考えてみると、自ずと触っても大丈夫か? 舐めても大丈夫か? 遊んでも大丈夫か? なんていうことが分かってくる。

夏の湘南の海には近づきたくない。


2002.4.4

国際問題というのは、表側からの情報では決して理解しきれない。

過去、何度かこのTextでも書いたアラブ・パレスティナとイスラエルの問題。単にヤセル・アラファトを監禁状態に置いても、いたずらに報復行動を煽るだけである。あるいは暗殺や攻撃中に殺してしまったとしても報復のための口実を与えるだけになってしまう。ましてや、現在のアラファトにパレスティナを纏めるだけの実力はない。

これは、国際社会では公然の秘密のような状態の事柄である。現在ではPLOがパレスティナの代表のような理解のされ方をしているが、実は勝手にPLOがそう名乗りをあげたに過ぎない。大多数のパレスティナ人たちにとっては、認めた覚えがない、という状態なのだ。これは、過去から現在にかけて様々なパレスティナ人のリーダーが、様々なグループを立ち上げてテロ行動を行っていることを見ても明白である。パレスティナ過激派グループの中で、アラファトの暗殺が計画されたこもあるという。

過去にも書いたように、アラブ・パレスティナとイスラエル問題については、聖書の時代までさかのぼって歴史的な背景を理解する必要がある。どちらの主張にもそれなりの正当性があるから、話しがややこしくなるのだが。しかし第二次大戦後に、戦勝国によってアラブ側に何の打診もないままイスラエルが建国されたことは確かである。戦勝国とイスラエル側(各国のユダヤ・ロビーというヤツだ)では、事前に話し合いが持たれたにも関わらずだ。

このような列強各国による勝手な国境の線引きや建国は、後に第三世界のナショナリズムという形で手痛いしっぺ返しを食らうことになる。植民地あるいは半植民地状態で支配していた国が、次々に独立していき、その過程で血で血を洗う抗争や隣国との紛争などが起きた。そこには冷戦構造という、第三世界にはまったく関係のない力も作用していたのだが。

旧ユーゴスラビアでのセルビア、コソボなどの紛争も、600年以上にわたって蓄積された民族間、宗教間の対立が、冷戦構造の崩壊によって一気に表面化した事例だ。イングランドにおいて長く懸案事項となっている北アイルランドの問題も、宗教間の確執が要因となっている。我々日本人は、宗教への依存度がさほど高くないために、この宗教問題には割と疎いところがある。しかし、民族間の紛争は、この宗教問題が歴史に複雑に絡んで事を難しくしているのだ。

アフリカ諸国などは、部族が違うというだけで信じられないくらい憎みあう。こういった部族間の関係などおかまいなしに国境を引いてしまうから、ある部族は支配地域を二分され、ある国は対立関係にある部族が同じ国の中に入ってしまうことになる。また、充分に国を治めるための教育など受けていない、単に部族間の抗争に勝利しただけ、という人間が国を治めるのだ。支配者は私利私欲に走り、国民は貧困のどん底に落とされる。

「ブラック・ホーク・ダウン」という本がある。近日公開の同名の映画の原作である。この本は小説風に仕立てられてはいるが、ソマリアの国内紛争に介入したアメリカ軍のルポルタージュである。参加した特殊部隊の兵士たちのごく限られた視点だけでなく、理不尽に踏み込まれたソマリア国民の視点、現地で繰り広げられる支配者たちの悪行三昧など、多くの違った視点と現地でしか分からない生の情報を盛り込んだ、先進国と発展途上国の問題の患部を抉った貴重な情報源である。

現在アメリカは、アラブ側に一定の理解を示す態度を取ると同時に、イスラエルの軍事侵攻を容認する態度も取っている。これには、世界のエネルギー源である油田を擁するアラブ世界を刺激しないように、という配慮と、アメリカ国内で非常に大きな力を持つユダヤ・ロビーへの配慮、さらにはアラブに一朝有事の際、安全に上陸できる拠点としてのイスラエル、という複雑に絡んだ因果関係が影響している。アメリカとしては、現在アフガニスタン問題を抱えているために、積極的に中東方面へ力を割けないこともあり、事態を静観する態度がありありと分かる。

ソヴィエト連邦崩壊後、世界で唯一のビッグ・パワーを持った国として「世界の警察官」を自負するのなら、全ての事柄に等分に対処する必要がある。しかし、所詮は他国のことは他国のことなのである。世界の紛争や問題に介入するときは、明確にアメリカの国益に沿った形でしか解決しようとしない。自国に利害が絡まない場合は、国連に丸投げという態度を見ても明らかである。

国際平和であるとか、人道的支援などと表面上は各国とも耳に心地よい言葉を使っているが、裏を返せば各国が国益を剥き出しにしてぶつかり合うのが国際政治の本当の姿だ。


2002.4.2

自分の外観を変えることにあまり躊躇がない。

あるホームページの管理人の方は、何日か前に書いた私の「側頭部ゼロミリメートル地帯事件」を読んで、自分も坊主頭になりたいとお考えになられた。数日悩んだ末に、一大決心をされて先日坊主頭になられたのだが。早速彼のホームページに、祝電ならぬお祝いメッセージを書き込んでおいた。次はピアスを考えておられるそうで、これでアゴ髭でも生やせば、私と区別がつかなくなってしまう。

上記のような髪形の急激な変化は、ある意味、それまでの自分のイメージを完全にブチ壊すほどのインパクトがある。衣服や靴などの、身に着ける物をガラリと変えるのとはワケが違う。それほど髪型・ヘアスタイルの変化は、その人の持つイメージを決定付ける要素となっている。だから、ファッション誌などでも定期的にヘアスタイルの特集が組まれるのであろう。だからといって、そこに特集されているスタイルがカッコ良いとは決して思わないのだが。

確かに、スタイルを変化させた当初は、周囲に与えるインパクトも強烈なものがあるかもしれない。しかし、インパクトは強烈であればあるほどその効果が薄れるのも早い、という意外な事実がある。「人の噂も七十五日」という諺の通り、周囲の人はいつまでも自分のことを気にしてはくれないのである。

ということは、こうしたイメージ・チェインジをすることというのは、自分の内面的な決意や決断によるところが大なのである。イメチェンをキッカケにして、自分の中の何かを変えたい、という態度の表明なのだ。人間は、それほど意志強固な生き物ではない。何より自分が可愛いし、自分の中で持っている己のイメージを結構大事にしている。人から何か言われたとしても(そのときはグサッとくるような一言であったとしても)、実は割と傷つかないものである。

だからこそ、自分のイメージ(しつこいようだが、自分が自分に抱いているイメージを指す)や内面を大幅に修正変化させる場合には、何か大きなキッカケや口実が必要なのだ。自分という人間の「核」となっている部分を変化させるのだ。平常な心持ではうまくいかないだろう。

私が坊主頭にしたり、耳に穴を開けたりしたことも、それなりに理由があった。

表向きの口実は、スポーツをやる際の手入れの簡便性や床屋代金の節約があったし、耳に関しては「宗教上の理由です」という答えを用意していた。順番で行けば、耳に穴を開けた方が先なのだが。「他人から何を言われようとも、自分のしたいことをし、やりたいことをする。完璧に我が道を行く」という、どこまでも我侭勝手な決意表明なのだが……。

思い返してみると、ピアスのときも坊主頭のときも、さして悩まなかった。自分の中に持っている、過激な(エクストリームな)部分をより鮮明に表に出したに過ぎないからであろう。坊主玉のスーツ姿も結構イケるなぁ……などと考えたくらいだ。確かに外観上の変化は大きかったが、私の中では余り大きな変化ではなかったのだ。

こうして考えてみると、大きくイメチェンしたと(周囲からは)思われても、私的には大して変わっていないことになる。これは、前述の如くさほど大きな心境の変化ではなかったこともあるが、それ以上に人間に内面などそう簡単に変わるものではない、という私の考え方もあるのだろう。悩みも含めて、一切合切の心の動きはグッと内に秘めて、外観上はクールに見せたい、という痩せ我慢的エエカッコしいなメンタリティ持ち主であることが大きな要因である。

人間、身体だけでなく心も鍛えれば強くなる。本当か?


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