2002年2月分
2002.2.27
金曜日、土曜日の出張が取りやめになったことから、週末の予定が空白になってしまった。
どうやらこの時期に予定される出張は、私にとってあまり縁がないようである。去年も北陸方面への出張があったのだが、記録的な大雪のために中止となった。来週末の岡山出張は天変地異がない限りは確実だ。
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近所の多摩川の土手には、桜がたくさん植わっている。
最近気づいたのだが、その桜の2割近くが既に開花に至っているのである。今シーズンは暖冬が伝えられているが、その影響なのか? それとも早咲きの品種なのか? それにしてもまだ2月である。昨年の記憶が定かではないのだが、おそらくこの時期は咲いていなかったような気がする。近所の家の桜でも、既に開花に至っているものが見られることから、品種ではないような感じである。
どちらにしろ、ここのところ毎晩のように一足速い夜桜見物を洒落こんでいる。
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ここしばらく、タバコ「LARK」の宣伝のテーマはサーフィンだ。
南の島の若者が、波打ち際や浜辺のシャワーで寛ぐ姿がカッコ良い。先ごろ発売されたメンソールにも、このテーマは継承されている。オマケで付いてくるライターも、サーフボードに描かれるガラを題材にしたものになっている。一緒に付属するプレゼント・キャンペーンのチラシも、おそらくハワイあたりで撮影されたもので、サーファー心をくすぐるパーフェクトな波の写真が使われている。
このオマケのライターを集めようと思う。なかなか良いガラで、部屋の鴨居の上に並べると、面白いオブジェとなるだろう。しかし問題は、このオマケのライターに気づくのが遅かったことだ。地元の最寄駅では、キオスクのおばちゃんから「もう残り少ない」と言われてしまった。
はたして全種類、制覇できるだろうか?
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このところ、しばらくサボっていたアブスライドを再開した。
さすがに再開した直後は、久しぶりの筋肉痛に見舞われた。同時にパドリング・フォーム矯正のために、金魚運動を行っている。金魚運動といっても、テレビ・ショッピングで売られているような器具を使うわけではない。カッコも器具を使う場合とは反対、つまり腹這いとなって背筋を使い、臍のあたりを中心に上半身と下半身を持ち上げて、身体を左右に振るのである。
言葉にすると簡単だが、この運動はかなりキツイ。重労働だ。しかし、この運動によって左右均等にパドリング力を分散し、真っ直ぐにパドリングすることができるのだ。私は金魚運動と言い張っているが、奥さんに言わせれば「コモドオオトカゲが走っているようだ」そうだ。確かに、腕はトカゲの前足のごとく構え、両足は揃えているから、トカゲの尻尾に見えないこともない。
傍から冷静に見られているのだから、おそらくコモドオオトカゲなのだろう。
2002.2.26
新たにCookingというページを作ってみた。
そちらのページにも書いているのだが、自分の書いた過去の文章を始めから読み返してみる、という作業は、実に大変なことであった。こういうことを今までやったことがなかったのである。垂れ流しである。昨日は仕事の合間にずっと読み返しながら、食に関する記述をピックアップしていた。ほぼ丸位置に近かって先週の金曜日までたどり着くことができたわけである。非常に疲れた。
しかし、やってみると意外に面白かったというのが正直な仮想である。
垂れ流しであって、ジャズのアドリヴと同じように「覆水盆に帰らず」的に日記のようなものを書いていると、書いたときは覚えていてもその後すっかり忘れてしまっていた事柄や出来事、考えなどが蘇ってくるのだ。何を考えていたのかなぁ……。何をやっていたのか??? という後悔のような念が沸き起こったことは言うまでもない。
痴漢に遭遇した事件など、今から考えるとなかなか感慨深い。今日も電車の中で私に痴漢行為をはたらいた女性を見かけた。彼女は、ドアに凭れて真剣な表情で携帯電話にメールを打ち込んでいた。相変わらず私はといえば、ウスラボケ〜ッと車内広告を眺めたり、車内でできる筋力トレーニングをしている。痴漢に遭遇したときの分析など全くその後に生かされていないのである。
何はともあれ、Cookingのページは、一人暮らしの人や面倒臭がりさんにはもってこいの感じだ。試みてみたレシピの結果などをお知らせいただければ幸いである。
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以前から密かにファンとして見学? させていただいているホームページ2つがある。
ここが良くネタにするのが、夫婦間の話題だ。どちらにも共通していることが、奥方がダンナの子供っぷりやヘタレぶりを嘆く、というパターンだ。奥方の苦労振りがうかがえる内容で、楽しく読ませて頂いているのだが。「母子家庭」だとか「動物園」という言葉が飛び交うほど、男という生き物は結婚すると「子供」に帰ってしまうのだろうか?
ご多分に漏れず、我が家の状況もまさしく2つのホームページと相通ずるものがある。我が奥方は「猿を一匹飼っているようなものだ」だとか「猛獣家族」だとか「ウチは幼稚園よりもヒドイ」だとか「バカな幼子を抱えた母は、苦労が絶えない」などという発言が頻繁に見られる。確かに、私は子供の如く傍若無人な振る舞いをしないこともない。猿だとか猛獣のような振る舞いが無いといえば嘘になるだろう。
独り身の頃から比べれば、我侭を言う相手がいる分だけ子供回帰が進んだような気もする。
しかし、男はロマンティストであり戦士でもある。漠然とした夢や希望を追いかけて、いつか実現しようと企み、傍から見れば奇異を通り越した言動と写るようなこともする。一方では、暮らしていくための糧を得るために毎日働き、その中でも自分が自分であることを勝ち取ろうと闘いつづけている(カッコ良い……)。そうした企みや戦いを全力で推進する男の、唯一の休息の場所が「我が家」であり、心許せる相手が「妻」なのである。
夢潰えて落ち込んだ心を癒し、戦いで傷ついた心と身体を癒す。そのための充電の行為が「猛獣」であり「幼稚園児」のような言動なのである。それが本当の自分の姿かと思うと、情けない限りな話しなのだが……。しかも哀しいことに妻は、夫の行為がナチュラルなもの、何も考えずに出ているものと解釈していることである。
「うんこ」「ちんこ」「しょんべん」を含む、いわゆる下ネタは、今や色っぽい雰囲気を盛り上げるための作戦ではなく、ビートたけし的なギャグの道具に成り下がっている。「北野ファンクラブ」で一世を風靡した「下ネタ替え歌」の精神を私は今も継承し、家の中で、車の中で、海でボードに跨りながら、夫婦で散歩しながらバカな下ネタの歌を口ずさむ(これは行き過ぎか?)。
私は子供回帰が進んでいるから、セックスに関しては貪欲である。猛獣といわれる所以はこの辺にもあったりするのだが、それはさておき、女性は結婚すると、とたんに性欲が減退していくと感じているのは、果たして私だけであろうか? 以前にも書いたが、女性はある激しい時期を通り過ぎると、セックス以外の事柄に安らぎや充足感を求めるようになり、男だけが激しい性欲の嵐の中に取り残されるようだ。奥さんはこうおっしゃる。
「会社にいるときは、あぁセックスしてぇなぁ……って思こともあるんだけど、家に帰ってきてアンタの猛獣(あるいは猿、あるいは幼稚園児)振りを見ていると、性欲も失せる」
私は、彼女と出逢った頃の魅力を失ってしまっているのであろうか?
何だかんだと書いてみたが、結局最後はダメダメ&ヘタレ亭主振りを曝すだけになってしまった。
2002.2.22
今日は、故・大藪春彦の誕生日だ。
丁度数日前から「孤狼は挫けず」を読み始めていた。何か虫の知らせ? のようなものを感じたのだろうか? 壮絶なスパイ小説を読みつつも、今考えているのは子供を主人公にした小説だ。近いうちに書き始める予定になっているので、3月中にはアップできるハズである。
楽しみな方はお楽しみに。そうでない方は、読み飛ばしてください。
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最近「焼きそば」にハマっている。
焼きそばといっても、お祭りの屋台などで売っている「ソース焼きそば」ではない。麺自体には味付けはせずに炒め、上にかける「あんかけ」にヴァリエーションを持たせるのである。いわゆる「あんかけ焼きそば」を作っているのである。この方法でいけば、1週間に2〜3回食べても飽きが来ない。簡単で美味い(永遠のテーマだ)食べ物の代表格といえるだろう。
先ずは麺の調理方法から。方法といっても、これは簡単だ。フライパンに焼きそばの麺を広げて、弱火にかけるだけだ。この際、胡麻油を少し引くとより美味さが増す。この麺。スーパーマーケットで売られている、普通の麺だ。表現の方法が的確ではないが、半生状態? のような感じのものである。柔らかいが、調理が必要というものだ。
この麺は、買い置きが効く、というところが嬉しい。買ってきてもすぐに食べないのであれば、冷凍庫へ放り込んでおけばいくらでも保存できる。食べるときは電子レンジで加熱して戻せば良いのだ。
さて、弱火でジックリと焼いていると、麺のフライパンに接した部分が焦げてくる。この「焦げ」がポイントで、単に焼いただけでは美味さが引き立たないのだ。片面をやや焦がせばOKだから、時々焦げ具合を見ながら、満遍なく焦げ目がついたら裏返す。裏返したら、2〜3分で出来上がりだ。焦げた面を上にして皿に広げ、上からあんかけをかければ出来上がりだ。
次にあんかけ。これはもう、限りなくヴァリエーションが考えられるから、いくつかのポイントとレシピを書き記しておこうと思う。ポイントから。具をザッと炒めたら、やや水を加えて少し煮るようにする。汁気の多いここへ「片栗粉」を解いた水を加えてトロみをつける。味付けは塩コショウが原則で、醤油、オイスター・ソースなどで味を調える。投入のポイントだが、魚介類を主体とする場合は「塩コショウのみ」の白いスープ? が良い。これに反して肉類を具に加えるときは「醤油&オイスター・ソース」を味付けの主体とする、黒いスープが良い。
オイスター・ソースは、魚介類から取るソースだが、肉類との相性の方が良いのはどうしたわけか? また、片栗粉でトロみをつける場合、野菜の具の主役はキャベツよりも白菜(特に固い部分)のほうが圧倒的に美味いのも七不思議の一つであろう。
その他、四川料理風にトウバンジャンやショアジョ(山椒)、八角などを使っても身体が芯から暖まる味わいとなって美味い。この際には、具は豚肉、ピーマン、茄子は外すことは出来ない。
そして、忘れてはならないのが生姜と大蒜(これはなくてもOK)とネギの微塵切り群だ。これを最初に煙が出るほど熱したシナ鍋に油を引いて、やや焦げるくらいに炒めてやることで、本格的な中華の味わいを簡単に出すことができるのだ。また、ショウガの量は多ければ多いほど美味いハズである。
最後は食べる際のポイントだ。ここでは「酢」と「カラシ」はかかせない。考え方は「冷やし中華」と同じだ。あんかけ焼きそばの上に酢をかけ、カラシを解きこんでかき混ぜて食べるのだ。絶対的にこのアイテムは欠かすことが出来ない。カラシのツーンと後頭部へ抜ける刺激と共に食べる焼きそばは最高だろう。もちろんこのあんかけ、ご飯にかけても絶品であることは言うまでもない。
ヴァリエーション次第では、1週間連続で食べても飽きない。絶対的なオススメ。
2002.2.21
友人の家に子供が生まれた。
出産祝いに、宮本商工という、銀器の老舗のベビースプーンを贈った。このスプーン、なかなか由緒正しき品で、秋篠宮家のお子様たちにも天皇陛下から贈られている。おそらく皇太子殿下のところにも贈られることになるだろう、ということである。いろいろ調べてみると、このベビースプーンは、結構色々なブランドから出されている。ティファニーやエルメス、ジョージ・ジャンセンなどの一流どころからは、目が飛び出るほどの値段で出ている。
宮元商工のスプーンは、一流どころの半分以下の値段だから、お手ごろであると同時に由緒も正しいという、一粒で二度美味しい品である。
子供の躾について書くつもりであったのだ。
この友人の奥方の姉の家にも子供がいるのだが、その子供の態度や行動は、殺意を覚えるほど憎らしいという。「親の問題だね」と友人は言う。確かに最近の子供は、躾が行き届いていないような気がする。電車、レストラン、喫茶店、映画館などの公共の施設で見かける子供の振る舞いは、傍若無人という言葉がよく似合う。親は子供のことよりも、他のことに気を取られていることの方が多く、どんな場所でも野放し状態である。
私が子供の頃、家に客が来たりしたときに、私が客に対して失礼な振る舞いをしたりすると大変であった。客の前でもいきなり親の鉄拳が飛んでくるのである。公共の場所でも同様であった。つまり、私は子供として取るべき態度や振る舞いを、キチンと親から規制されていたということである。現在の親や子供はどうであろうか? 親が子供を叩いている、叱っている場面をあまり見かけなくなった、というのが現状であろう。
電車の中やレストランなどで、子供が騒いだり走り回ったりすることを、悪いことをしている、人に迷惑を掛けている、という認識が親にはないのだろうか? 私はこういうガキを許さないことにしているから、私の前を通り過ぎようとしたときには、必ず捕まえて拳骨制裁を加えることにしている。このときの親の反応が面白い。ほとんど80%以上の親が「この野郎、ウチの子供に何しやがるんだ!」という顔で私を睨むのだ。ご迷惑をおかけしましただの、すみませんだのという、詫びの言葉を口にする親はごく稀である。
現在の幼稚園や保育園においても、つい数年前までは地べたに座っておやべりしたり、タバコを吸ったり、物を食っていた人間が、先生なのである。その指導は推して知るべしである。
子供を叩くべきか? 叩かざるべきか? 教育の場では議論される(大抵は叩くべきではないという結論になる)ことのようだが。個人的には叩くべきだと思う。自分がそうされてきたからというわけではないのだが、5歳くらいまでの子供の行動というのは、犬と変わりがない。逆から見ても、犬の行動は子供そっくりで驚くときがある。体験こそ最大の知識吸収である、という人間の特性からしても「身体に叩き込む」ことが一番理解が早いのだ。悪いことをすれば痛い思いをする、ということを覚えなければならない。叩いた後で、何故叩かれたかをきちんと説明すればよいのだ。
兄弟は哀しい。兄はいつでも「見せしめ」であり「生贄」である。親は兄を叩き叱ることによって弟を教育する。我が兄弟の場合を振り返ると、100対1ぐらいで私が一方的に叩かれていた記憶がある。したがって、弟というのは概して兄よりも賢く小ズルイ。言い換えれば要領が良いのだ。幼い頃から身に付けたテクニックといっても良いだろう。
見せしめであろうと生贄であろうと、直接叩かれようと、子供は叩かれた理由がハッキリ分かっていれば学習する。もちろん、叩かれなくても学習できる「物分りの良い」子供もいよう。しかし、熱いものは熱い、痛いものは痛い、冷たいものは冷たいということは体験しなければ本当のところは分からない。こういうことをしたら、痛い思いをする、怖い思いをするということも体験によって学ぶべきことである。
子供のいない人間がこんなことを語っても、説得力に欠けるのだが。いないからこそ客観的に見えるという感じもする。
2002.2.20
「ナビィの恋」という映画を観た。
昨日のNHK衛星放送である。数年前に公開され、沖縄地方では大ヒットした映画だ。ドラマ「ちゅらさん」のおばあ役で全国区となった平良さんが主演で、その他沖縄民謡の大家と呼ばれる人など、沖縄地方では有名人という方々が出演している。ストーリーに関係なく? 突然流れ出す沖縄民謡やクラシック音楽(しかし伴奏はサンシンと呼ばれる蛇皮線)、ウチナー言葉バリバリのために日本映画で日本語なのにもかかわらず、随所に流れる字幕テロップ、というかなり変わった映画である。
ハッキリ言って、面白かった。「オーシャンズ・イレヴン」などクソのようである。
ストリーは、東京へ出ていた孫娘が故郷の粟国島へ恋人同伴で帰ってくる。その孫娘の視点から捉えられた「おばあ」の恋物語だ。60年前に引き裂かれた恋人同士。島を追放された男は、「必ず迎えに来るから待っているように」と娘に言い残して去っていく。その後娘は、村(島)の因習に従い結婚するが、去っていった男のことは忘れていない。60年経っても全く薄れることのない、激しく熱い恋心は、ウチナンチュの女の独特のものであろう。
ある日突然現れる昔の恋人。恋人と共に島を去る決意をする女。それを分かっていながら黙って送り出す女の夫。よくあるシチュエーションなのではあるが、これを既に老人と呼べる人々が展開するのである。さらには、素朴だが素敵な沖縄のネイティヴたちが演じるのである。そこにおかしさや感動が生まれるのだ。
粟国島など、沖縄本島以外の島々には、いわゆる「伝統的沖縄建築」の家々(以前、このTextでも紹介した)が残る。青い空や蒼い海、鮮烈なブーゲンビリアの花。美しい島の風景と、非常にゆっくりと流れる地間独特の時間経過が、映画のもう一つのポイントだ。この映画を観れば、沖縄の島に住みたい! と思わずにいられない。早期リタイアから、ハワイ永住! などとうわ言のように言い続けていた我が奥様も、突然「やっぱり沖縄!」と言い出すほどだ。
ビデモも買って、何度でも観たい映画だ。
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かなりの頻度であることなのだが。
数日(4〜5日)の間を空けてスポーツクラブへ行くと、休館日にぶつかることが多い。場内の清掃や機器の整備・点検、そしてもちろん社員の休養が目的であるのだが。我々夫婦が行くスポーツクラブは、他のクラブと比べると、休館日が多いようだ。より清潔で整備の行き届いた環境で汗を流すことができるのは嬉しいことなのだが、ちょっと多過ぎやしないか? と思ってしまう。
もちろん、我々はバカだから、休館日を確認しもせずに行ってしまうのが悪い。しかし、大きなスポーツバッグを担いで折角行ったというのに、休館日でした……というのは非常に寂しい。精神的なダメージが大きいのだ。我々の普段の行いが悪いのか? 休館日にぶつかる確率が非常に高い気がしてならない。これがましてや休日だと、そのダメージはさらに大きくなる。
ちょっと久しぶり、というときには「まさか、今日は休みじゃないでしょうね?」などという会話が飛び出してきてしまうのは、それだけ我々がやられているということだ。休みが多過ぎる、というのは、実は錯覚で、大体他のクラブも同じような日数の休館日があるのだ。ただ、我々バカ夫婦がそれを知らずに言ってしまっているだけだ、ということに最近気づいた。他のクラブへ通う友人に確認したのだ。
今日は5日ぶりのスポーツクラブだ。休館日でないことを祈っている。
2002.2.19
春を目前にして、再びバタバタする気配だ。
3月1〜2日福島。3月9日岡山。ともに土曜日が絡む。特に苦痛なのは福島だ。この時期、東京近辺から北へはなりべく行かないように調整していたのだが、今回は捕まってしまった。かなり寒いらしい、という噂は様々な方面から伝わってくる。このクソ寒い中、海に入っている人間が書いても説得力がないのは分かっているのだが。やはり寒いところへは行きたくない。
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オリンピックがそろそろ終盤に差し掛かりつつある。
オリンピックという、4年に1回の競技会。たまに開かれる競技会だからこそ、悲喜交々のドラマが生まれるのだとは思う。このドラマの一端を担っているのが、いわゆる「一発勝負」的な競技の性格だろう。ミスは許されない、というヤツだ。スケートにしろアルペンやノルディックのスキーといった競技は、まさにこの一発勝負のプレッシャーに選手は曝されているといえる。
しかし、あらゆるスポーツがプロ化されてきている昨今、この一発勝負的勝敗の行方に、選手の反応が少しずつ変化しつつあるように思われる。プロ化した選手たちは、シーズン中は「ワールドカップ」という競技会で技を競い合っている。その試合の時々の勝敗もさることながら、最終的な評価は、ワールドカップを戦い抜いた結果の「総合ランキング」で決まる。
これは、全ての試合で如何に成績を上位に揃えてこられるか? という本当の総合力が問われる評価方法だ。地元だけでなく、各国各地を転戦しながら、様々な条件の下で力を発揮するのだから、並大抵の力の持ち主では勝負にならないのだ。こうした競技方法で争っている選手の心の内側とはどんなものであろうか? 「多少の失敗は、次(の試合)で取り返せばよい」ということにならないだろうか?
長いシーズンの中では、落とす試合もあろう。しかし、一試合落としたところでクヨクヨしてはいられない。シーズン終了時の最終的なランキングが、翌年のスポンサーやチームなどとの契約、シードなどに影響してくるからだ。もちろん、順位へのこだわりはあるだろう。勝利することこそ目的だからだ。ワールドカップ・レヴェルで闘う人々は、一般人には計り知れない勝負へのこだわりがある。
オリンピックでの勝敗にも、このプロ化されたメンタリティは反映されてきているように感じる。例えば、物議を醸し出した男子ハーフパイプ。日本の選手は、明らかにメダルに届いていた。この判定に不服を表明した彼は、競技終了前に試合会場を後にした。その後、もうオリンピックには出ない、というような発言もしていたようだ。大して金にならないオリンピックよりも、プロに専念することで自らの名声や富を築いた方が良い、という考えなのだろう。
これに反してフィギュア・スケートは、後のプロ転向において、オリンピックにおける獲得メダルの色で、生涯獲得できる収入が億単位で違ってくるという。談合が行われても仕方がない状況なのだ。今回の談合疑惑も、こちらで勝たすから、こちらでは勝たしてくれという、バーター取引であったようだ。
既にビッグネームとなっているプロたちが集うアイスホッケーでは、アメリカ、カナダ、チェコ、フィンランド、スウェーデンなどの選手は、プロ同士の戦いを見せるため、NHLの延長といった心持であろう。さらには、NHLからのスカウトを目論む若い選手たちも、自分のプレーを見せるために必死になっている。勝つため、という目的もさることながら、選手一人一人の目的はかなり違ってきている。
勝ったり負けたりしたときに選手が見せる「涙」にも違いが出てくるだろう。オリンピックとはいえ、戦う相手は普段の試合で凌ぎを削っている選手ばかりだ。彼らとの僅差の勝負を征したり征されたりした嬉しさや悔しさが、涙の本当の意味ではないだろうか? 国の期待を一身に背負っていた重圧から開放された涙というのは、日本人ぐらいのものではないだろう。
勝つこと、良い成績を修めることを期待されて出場する選手たちは、辛いものがあるだろう。競技によって、その出場資格が異なることも見る側にとって混乱を招く要因となる。ある競技では、規定のタイムや一定の成績(いわゆるオリンピック予選というヤツだ。ホッケーやカーリング、夏の大会ではサッカーやバレーボールなど)に達しない者は出場資格が与えられない。そうかと思うと、ノルディック距離競技のように、カメルーンや南アフリカの選手が出場して、トップから大差で完走、などということが話題になったりしている。
映画にもなって話題になったジャマイカのボブスレー・チームや、今年初出場のブラジルのボブスレー・チーム、前述のアフリカ人選手などは、勝てないことが分かっていながら出場する。こうした人々と、完全なプロや半ばプロ化した選手たちが競い合うことに疑問を感じるのは私だけだろうか? 一方ではメダルの各国の獲得数を話題にし、もう一方で先頭から大差で負ける彼らを見て「オリンピックは参加することに意義がある」などと分かったようなことを言うのは、納得がいかない。
プロへの門戸開放で、確かに素晴らしい技術やタイムが出るようにはなったが、その分「素朴な面白さ」というのが、オリンピックからはなくなってしまったような気がしてならない。「出たい!」という者は拒まず、プロ選手の出場は禁止という昔の規定のオリンピックの方が面白いのではないだろうか?
運営のための資金や日程の都合、人気の低迷を呼ぶ恐れなどで実現は難しいのであろうが……。
2002.2.18
ボードを顔面に食らって、やや顔の形が変わっている。
他人のボードがぶつかれば、一悶着あったハズであるが、自分のボードがぶつかったので文句のもって行き所がない。リーシュコードはあれば便利だが、あったらあったで邪魔なものである。今回のボード食らい事件も、リーシュコードのおかげで起きたのである。
ワイプアウトしそうになったところで、私はボードを捨てて海に飛び込んだ。そこまでは上出来の身のこなしであった。しかし、私の飛び込みの勢いが強すぎたのか、ボードの走りが予想以上にあったのか、ボードと私の距離が大きく離れてしまった。リーシュコードの弊害はここで出る。もともとこのコード、人間とボードの距離が離れすぎないようにあるものである。したがって、ここでもうまくその機能が働いたのだ。
しかしロングボードは浮力があり、単独でも海面をよく走る。コードが伸びきった反動で逆戻りしてきたボードが、丁度海面に頭を出した私に向かって音もなく走ってきていた。気が付いたときは、ボードと顔面の距離は10cmほど。次の瞬間ゴンという、頬骨が鳴る音と共に眼から火花が散った。衝撃で瞬間的に目が眩んだ。
その後も海に入りつづけたおかげで、適度な冷却効果が生まれ、大きな腫れには至らなかったのは不幸中の幸いであった。
2002.2.14
ビジネスホテルには、必ずといって良いほど「有料チャンネル」というものがある。
これは、主にH系の番組を延々と放送し続けるケーブル・テレビと直結しているのだが。他にも映画ばかりを流す局に繋がっている場合もあり、有料チャンネルは2チャンネルある場合が多い。中にはH系2つ(国内物と洋物)に映画系1つなどという奢ったホテルもあるが。もっと奢ったホテルでは、これらのチャンネルを無料で見せてくれるところもあるが、なかなかそういった良い? ホテルには当たらない。
この有料チャンネルの相場は、一晩1000円だろう。2〜3チャンネルを1000円で一晩見放題というのがシステムだ。これは宿泊料(大抵の場合、チェックイン時に一括して払う)とは別会計となっているから、チェックアウトのときにフロントの人から「3000円です」などと言われ、気恥ずかしいような、イタズラを見つかってしまったような気分になる。
これは、他のチェックアウト客から「おっ、アイツ見たな……」と思われるところから来る気持ちなのだろう。カッコ悪いな……という気分にさせられる。最近では、こういった気持ちを宿泊客に味わわせないような配慮がホテル側で取られるようになった。「プリペイド・カード方式」の導入である。テレビの下に設置された、有料チャンネル用の機械にカードを差し込むことによって見ることができるのである。このカード・システムは、電話と直結していて、ホテルから外線(これもチェックアウト時の別会計という場合が多い)をかける際の支払いにも使えるという、かなり便利な存在である。
しかし、納得がいかないのは、有料チャンネルを見ているときの「カード度数」の減りと電話のときの減りのスピードが明らかに違うのである。つまりは電話をかけるときのほうが減りが早いということなのだが……。
この出張中の「エロ・ビデオ鑑賞」は、潤いの少ない出張生活の中で、唯一といって良いほどの楽しみである。結婚生活を送っていると、どうしても一人の時間というのが取れない。したがって、エロ・ビデオやエロ本を鑑賞する時間は、皆無に等しい。自分専用の個室(書斎や仕事部屋など)を持てるだけの財力があれば別だが、一般のサラリーマン家庭では、ムリがある。ましてや、一人エッチ、すなわちオナニーをする時間や空間を確保するのは至難の業である。
オナニーとセックス、どちらを取るか? と問われれば、迷わずセックスと答える私だが、やはりオナニーにはセックスにない独特の雰囲気や感覚(隠れてする楽しみや、終了時に心を満たす空虚感など)がある。セックスだけでもオナニーだけでも欲求は、満たされることはないのである。両者を両立できて初めて、性的な充足感が満たされるのである。
このセックスでは埋められない部分を、出張で満たそうとする男性陣は多いのではないだろうか? 私の周囲にいる既婚者は、まず十中八九、出張に期待感を持って出かけて行く。中には、出張中毎日(4泊5日)、オナニーをしていたという、剛の者もいるくらいだ。かく言う私も、出張中に必ず1回は一発抜く。運悪く出張先のホテルに有料チャンネルがない場合(こんなホテルに当たったときの落胆は相当なものだ)など、わざわざエロ本を購入してまで抜く。
しかし、この垂れ流し的有料チャンネルでのオナニーは、実は結構難しい。当たり前の話だが、ビデオやDVDと違って、早送りや巻き戻しが出来ないのである。これは、面白くない場面を早送りで飛ばしたり、最後まで見ておいて、最も盛り上がったところまで巻き戻すことが出来ないことを意味している。フィニッシュのタイミングをつかめない、つかみにくいということだ。
私にも、もっと先に良い場面があるだろう、と思っていたら結局フィニッシュできないうちに終わってしまったとか、逆にここでフィニッシュしておけば……という場面を通り過ぎてしまったりといった苦い経験が多々ある。一応番組表があるが、名前だけを見てどんな女の子が出ているか分かるほど、私にはこちら方面に知識がない。したがって、次の番組で! と勢い込んでいたら、まったくタイプではない女の子であったために見送ってしまう……などという状況が続くのだ。
事ほど左様に、有料チャンネルでのオナニーは、フィニッシュまでに膨大な時間がかかる。出張先での最大級の楽しみではあるが、寝不足や疲労、時間の無駄遣いなど得る物よりも失う物の方が多いのが実情である。おまけにお金まで取られてしまうのだから、結局最後までフィニッシュできなかった夜のダメージは大きい。
それでも毎回同じことを繰り返してしまうのだから、哀しい性と言わざるを得ない。
まぁ、時間と軍資金が潤沢であれば、オナニーなどせずに実物の女性を調達することは可能なのだが。実際、奏している人の方が多いのかもしれない。そう考えると、今日の話はかなり貧乏臭く、情けない話しなのである、ということに気づいた。
2002.2.13
ヴァレンタイン・デイが目前である。
これほど「カッコいい私」であり「チョコレート好きの私」であるのだが、ヴァレンタイン・デイのチョコレートには、全く縁がない。過去を振り返ってみて、女性からチョコレートをもらった記憶がないのだ。いわゆる義理チョコと呼ばれる類も、部署の男性陣にまとめて一包みとか一箱といった、雀の涙程度の恩恵にあずかっただけなのである。これには、遥か昔に私が犯した愚行が、後々まで神様の怒りに触れているのだと思っている。
今から十年以上前、私がまだ中学生であった頃のことだ。
クラスの女の子が、ヴァレンタイン・デイにチョコレートをくれるという、何とも嬉しい、生まれて初めての時がやってきた。せっかくのチャンス(何のだ?)であったのだが、私はこれを自らの手でブチ壊しにした。当時、私の周囲では「硬派」という言葉が流行りで、女の子と付き合うことはカッコ悪いという雰囲気があった。ましてや、チョコレートをくれるという女の子は、私のタイプではなかったということも手伝って、私は彼女からの申し出を無下に断ったのだ。
今となっては考えられない暴挙である。
硬派云々よりも、同じクラスの女の子である。「あいつは○○からチョコレートをもらった」だとか、そんなことが周囲で囁かれるのが恥ずかしくてたまらなかった。また、チョコレートを受け取ることイコール付き合うことを承認する、という図式を、私は頑なに信じていた。付き合う気もない女の子からチョコレートはもらってはいけない、と本当に信じていたのである。自分も初心だったなぁ……と今となっては、恥ずかしい限りであるのだが。
それからがまた大変であった。女の子というのは、妙に連帯感というかつるむのが好きというか(差別発言か?)、拒否された女の子の友達が、かわるがわる私を呼び出したり待ち伏せしたりして、チョコを受け取れだとか彼女と付き合ってやれなどと言うのである。関係ない人たちからこんなことを言われる筋合いはないし、私は益々頑なに拒む方向へ向かっていったのは言うまでもない。こんな状況が3週間近く続いたのである。私の女性集団への不信感は、この時期に出来上がったようである。
その後、色々考えるに、折角手作りにしろ買ってきたにしろ、ひとが心に何かを込めてプレゼントしてくれるのである。先ずは受け取ってあげることが礼儀なのである。受け取った上で話をすれば良いことなのだ。受け取ってくれない方が良い、という意見があるのかもしれないが、それは私にはわからない。
話は逸れていくが、私は「折角」という言葉に弱い。「折角○○したのに……」と言われてしまうと、物凄く申し訳ないことをした、という気になるのだ。弟やいじめられっこ(弟を彼らと同列に置いてもいいのか?)が作り上げ作品、砂の城や積木の街など、を邪険に壊したときに「折角……」という言葉が出てくると、途端に気持ちが重くなり、「ごめんなさい」と謝ってしまう。
要は、女の子が折角……という考えに至ったとき、私は彼女に対して非常に申し訳ないことをしてしまった事に気づいたのである。しかし、周囲からの攻勢が私を頑なにしてしまい、謝罪することは出来なかったが……。これ以来、私は非常に広い気持ちで、プレゼントを待つようになったのであるが、最初の贈呈者を傷つけてしまった報いか、神様はその後私に異性からのプレゼントを殆ど許すことはなくなってしまったのである。
結婚してからも、その状況は変わらない。付き合い始めた最初のヴァレンタイン・デイでは、奥さんもチョコレートをくれた。しかし、私はその日のうちに全て食べ尽くしてしまい(丁度減量明けで飢えていた)、「有り難味のないヤツ」というレッテルを貼られてしまった。それ以後、チョコレートは自分で買うこと、というのが我が家の暗黙の了解事項となっている。
貰い物、という観点からいくと、至極寂しい人生を送っている私である。
2002.2.12
日曜日は、小雪が舞う中、湘南へ行ってきた。
水か汚いとか、いつでも混雑しているとか、ローカリズムがキツイとか、色々様々な形容のされ方をする湘南である。特に水と混雑がイヤで、今まで湘南には近づかなかったのである。しかし、日曜日は、奥さんを仕事場まで送り届け、サーフィンし、再び奥さんを迎えに行く、というスケジュール的な煩雑さが、サーフィンの場所として湘南を選択させた。
いつもの千葉だと、行きで2時間半、帰りは3時間以上を見込まなければならない。これに対して湘南は、行きで45分、帰りも1時間と少し見込んでいればOKなのだ。ハッキリいって近い。しかも高速代(千葉の1/4ほどだ)も安い。これだけ好条件が揃っていながら、何故湘南を敬遠するのか? 誰でも首を捻るところだろう。
しかし、それにはそれなりの理由があるのだ。先ずは鎌倉駅前を通って海岸線に出る。七里ガ浜を通り越して鵠沼海岸へ。江ノ島を回り込んだところからチラリと見えるその風景は、ある意味絶景だ。海面に多量のゴマを撒いたように、サーファーの頭が見えるのだ。台風のときの千葉よりも凄い。これでは、なかなか波を捕まえることは出来ないだろう。というわけで、七里ガ浜へ戻った。
七里ガ浜も、波のサイズの割にはサーファーの数がやたらと多い。長い海岸線でも、波の立つポイントは決まっているから、どこで波が立つのかを探す必要はない。人が固まっているところがそうなのだ。そういう意味では、千葉の海岸のように色々試行錯誤する必要がないのは楽だ。海に面した有料駐車場(1時間400円)へ車を入れる。
駐車場はキレイに舗装されていて、清潔だ。さらにはトイレも有料シャワーも完備されている。こういったところは、サーフィンなどの「海のレジャー」の歴史が長い湘南らしい素晴らしさだ。また、マナーの悪い人間が皆無に等しいところも素晴らしい。
人の固まっているところでも、比較的少な目のところを狙ってゲッティングアウトした。水温は耐えられないほどではないが、やはり冷たい。おまけにメチャクチャな寒さだ。千葉でも寒いと感じるが、歯の根が合わないほど(用はカタカタ歯が鳴る)の寒さを感じたのは、初めてだ。もう、ウェット・スーツの他にブーツとグローヴは必需品だ。と思ってあたりを見回してみると……驚いたことにノーブーツ&ノーグローヴの方々が多いのだ。しかも、年齢的には私よりも明らかに上の方々だ。
恐るべし湘南。
七里ガ浜はロングボード天国といわれるほど、ロングボードの比率が高い。おまけに年齢的にも高い層の人が多い。長年湘南に住み、ずっとサーフィンと付き合ってきた人たちだ。したがって、彼らのレヴェルは、驚くほど高い。千葉の海と比べても、ロングボードに限れば2段も3段も上だ。
しかし、波の大きさや、コンスタントにセットがヒットする確率は、千葉の方がずっと上だろう。日曜日は、セット間隔が非常に長く、呆然と波待ちする場面が多かった。そこへもってきて人の多さである。2時間で5本から6本、波に乗れるか乗れないかといった具合である。こうした理由から、湘南から千葉へ移住するプロのサーファーが多いらしい。
心配事の一つである「ローカリズム」は、思ったよりもキツイという印象ではなかった。年齢層が高いこともあって、非常に穏やかだ。沖で波待ちしていると、そのインサイドに明らかにビギナーと分かる2人組が紛れ込んできた。これは、アウトサイドから波に乗ってくるサーファーたちの進路をふさいでしまうから、非常に危険だ。衝突や接触の危険性があるのだ。
それに気づいたローカルたちは、すぐにビギナーを注意し、ブレイクから外れたところへ移動するように促した。その物言いも非常に穏やかで、おまけに練習方法まで丁寧にアドヴァイスするなど、自分たちだけ楽しめれば良い、という考えがないところは非常に素晴らしい場面であった。これが千葉なら、けんか腰に「退け!」というところだろう。または、接触や衝突が起こるまで知らん振りを決め込むかもしれない。それだけ、千葉には歴史も伝統もないのだろう。
歴史と伝統が息づく湘南ではあるが、コンスタントさやサイズ、混雑などを考えると、私にとっては、やはり「急場しのぎ」的な位置付けにならざるを得ない。
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噂の? 「オーシャンズ・イレヴン」を観た。
ハリウッドの売れっ子ばかりを集めた、前評判の高い映画である。昨日の渋谷は、休日ということもあって上映待ちの行列が長くできるほどであった。我々夫婦は、こういう場面では迷わず指定席を買うから、混雑に煩わしい思いをしたり、席の確保に目を血走らせるこもない。というわけで、席の方は絶好の場所を確保した。
問題は内容である。ハッキリいうとあまり面白くない。ブラッド・ピットやジュリア・ロバーツを使う必然性は全く感じられない。アンディ・ガルシアも通り一遍の役作りで、もう一ひねりあってもいいんじゃないか? と思わせる。そういう意味では、ビッグネームよりは周りを固める脇役たちのキャラクターが立っていて、そちらの方が楽しめる。
全体的には程好いスピード感と展開で、観ている方を飽きさせることはないのだが、指定席を取ってまで、行列を作ってまで観る価値があるか? と問われれば、「ハリー・ポッター」を観なさい、というだろう。特にブラッド・ピットのファンは、まったく「いいところなし」状態の彼を見る価値はないだろう。
ちょっと損した気分である。
2002.2.7
電車を下りると、すーっと冷気が気持ち良かった。
通勤電車というのは不思議だ。朝の車内よりも、帰りの車内の方が確実に温度が高い。ボクは、シャツのボタンを外しネクタイを緩めただけでなく、マフラーも解いていた格好を元に戻した。よく晴れた夜空は、既に放射冷却現象が始まっているらしい。
改札を出て、しばらく歩いたところには、自動販売機が集合したようになっているところがある。そこで薄荷入りのタバコと、温かいコーヒーを買った。中学受験のときに、友人のお姉さんからもらって以来、ずっと薄荷入りのタバコを愛用している。コーヒーは、昔からあるブランドの、甘ったるい物が一番好きだ。
見上げると、空気のきれいなところよりは遥かに見えないとはいえ、綺麗に星が瞬いていた。ほぼ真上に、オリオン座があった。オリオン座は、星座の中で、ボクが探し出すことができるだた一つの星座だ。カシオペア座や大熊座、蠍座など名前はたくさん知っているのだが……。
タバコを喫いながら、コーヒーを飲んだ。歩きながら飲む、という行為は、なかなか難しい。ボクの奥さんは、必ず立ち止まって飲んでいる。しかも両手をビンやカンに添えて。ボクも歩きながら飲むという行為が、決して得意というわけではない。歩く際の振動に合わせることが出来ず、口の量端から顎にかけてこぼしてしまうことがよくある。
寒いのは嫌いだ。でも、今日はちょっと気分を変えて川原を歩いてみようという気に、どういうわけかなっていた。それほどまでに星が綺麗だったこともあるし、満員電車で熱くなった身体が、夜の冷気を気持ちの良いものに変えていたこともある。
夜の川原は、ひっそりとしている。向こう岸に、見知らぬ人々の生活を示す灯りが点々と灯っている。この灯り一つ一つが、すべて違う人々のそれぞれの生活だと思うと、ボクの近所だけでも何と多くの人が暮らしているのか、と当たり前だが不思議な感覚にとらわれる。
軽やかな足音と共に、ジョギングをしている人が通り過ぎた。この寒いのに、頭からは湯気が立つほど汗をかいている。ボクもスポーツは好きだが、ランニングという行為は嫌いだ。走るくらいなら、ロープ・スキップでもしていた方がずっと良い。
向こうからも人が走ってきた。ポニーテールにした金髪を左右に振った、キレイな女性の外国人のランナーだ。彼女は眼が合うと、ニッコリ微笑んだ。ボクも右手を挙げて挨拶する。日本人同士では、滅多にない場面だ。同じような場面には、相手が外国人であるという条件付で、過去何度も出会っている。
キレイなお姉さんとささやかなコミュニケーションが取れとことで、気分が良くなったボクは、水際まで下りてみることにした。風のない川面は、鏡のように滑らかだ。突然の水音と共に、魚が跳ねる。滑らかな水面に、丸い波紋が鮮やかだ。跳ねたのは、寝ぼけた鯉か? このところ数が増えだしたブラックバスか?
背後を振り返ってみると、電車の鉄橋がかなり遠くに見えた。眩い光を振り撒きながら、電車が鉄橋を渡っていく。川面がその光を反射して、鉄橋の周囲は昼間のようだ。烏賊釣り舟。そんな言葉が突然、連想される。
ボクは、何本目かのタバコに火をつけた。吸殻は飲み干してしまったコーヒーのカンに突っ込んである。満員電車で熱くなった身体も徐々に冷えつつある。そろそろ、家に帰ってアルコールを摂取したくなってきた。ボクは堤防の土手を登った。
ふと見上げると、ほぼ真上にあったオリオン座が傾いて、大分道草を食ってしまったことを教えてくれた。ボクは携帯電話を取り出すと、家に電話をかけて奥さんを呼び出すことにした。もちろん、お湯とハバナクラブ、そして僅かな肴も頼むことは忘れない。
今夜は、もう少し夜を楽しもうと思う。
2002.2.6
神戸から戻ったと思ったら、強烈なカゼ(インフルエンザ臭い)に見舞われた。
日曜は、雨のため(非常に軟弱な理由だ)サーフィンを中止した。替わりといっては何だが、湘南へ偵察に向かった。古くからサーフィンのメッカとして、そして何より海水浴場としての歴史を有しているため、湘南は非常に設備が整っている。駐車場、更衣室、シャワー、トイレ……。千葉の海では信じられないような充実振りである。惜しむらくは、これらの施設が全て「有料」であるということだ。
過去何度も書いているが、海外などでこれらの施設が有料であることは、非常に稀なのである。海は誰のものでもない。したがって、これらの施設が例え公共のものであっても、金を取ってはならないのである。
湘南の海は、フラットであった。予想はしていたことなのだが、これほど見事にフラットな海というのは、千葉の海では見たことがない。距離や地形的な隔たりを感じた一瞬であった。
などという週末を過ごし、夕飯に手巻き寿司などを食べ、充実した週末を終えて眠りに就いたのであるが……。夜中に目が覚めた。私としては滅多にない出来事だ。胃から腸にかけてが鈍く痛み、気持ちも悪い。心なしか熱もあるようだ。こりゃヤバいかもしれない、などと思いながらも、まぁ一晩寝れば直る! という、いつものパターンで寝た。
しかし、腹部の重苦しさが祟ってなかなか眠りに就くことが出来ない。そうこうしているうちにウトウトしながら朝を迎えた。このときにはもう、具合の悪さはかなりのレヴェルに達していた。起床から30分ほど経過した時点で、最初の一発目が下腹部を直撃した。そう、ゲ〜リ〜である。それからは周期的にやってくる便意の波に逆らうことなく、ベッドとトイレを往復することになった。合い間に熱を測ると、なんと38℃もあるではないか!
平熱が35℃台の前半で推移する私にとっては、この体温は非常に高いと言わざるを得ない。どうりで頭はボ〜ッとするし、背中は板のようにこわばっているはずである。私は相当に具合が悪いのだ。下痢のために殆ど食べるものは取らず、水分の補給のみに留めた。こうしておかないと、何時までたっても垂れ流しになってしまうからだ。
ようやく起き上がれるようになったのが、昨日の午後である。
というわけで月曜、火曜と仕事を休んだ。咳や鼻、頭痛などを伴う風邪であれば、2日も休まないのだが、下痢を伴う風邪はツライ。何せ常にトイレの傍にいないと不安なのだ。この歳になって「おもらし」は勘弁願いたい。下痢の場合は体力だけではなく、精神力をも蝕むから、注意が必要だ。
しかし、メリット(と言えるのか?)がなかったわけでもない。発熱と下痢、それを食い止めるための絶食で、ウェイトが約4kg近く減ったのだ。ここ最近、出張続きで運動不足だったから、絞らなければ……と思っていた矢先の「簡易減量」だ。怪我の功名とは、このことであろう。これで週末のスポーツクラブとサーフィンで、一気に健康体へ復活だ。
などとフラフラになりながら書いている。
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