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2001年12月分


2001.12.27

今年も残すところ、あと僅か。

週の初めから、二日連続のぶっ続き会議。終了後、お客との忘年会。延々8時間も飲み続けるという、まさにマラソン飲みだ。家に帰り着いたときには、午前3時を回っていた。今日はさすがに寝不足&弱めの二日酔いだ。

さて、忘年会シーズンといえば、終電なくなり→タクシーという図式が浮かんでくる。

このタクシー。郊外に住む人などは、下手をすると1万円オーヴァーの金額を払わなければならず、毎週飲み会が続くような人にとってはバカにならない出費だ。そこで、昨晩は大阪で会得した「タクシーを安く乗る方法」を試してみた。タネを明かしてしまえば非常に簡単で、がっかりされそうなのだが……しかし、その効果はてきめんで、私は約3000円の節約に成功した。

酔っ払ってフラフラと道を歩いていて、タクシーが通りかかる。なかなか空車が見つからない。空車札を立てた(実際にはランプをともした)タクシーに突進するように手を上げて止める。行き先を告げてバタンキュー。というのが大体のパターンだろう。これでは、深夜料金もプラスされた正規料金で目的地まで連れて行かれてしまう。先ずは、大通りなどの客待ちをしているタクシーが屯する場所まで、寒さと酔いと戦いながら歩かねばならない。

このようなタクシーの溜まり場では、運転手が表に出て情報交換をしたり、飲み物やニコチンの吸収を行っている。ターゲットとなるのは、この運ちゃんたちなのだ。徐に彼らに近づき「○○まで、いくらで行ってくれる?」という交渉に入る。高速に乗る必要があるときは、その旨告げねばならない。もちろん、目的地まで行ったことがない運ちゃんもいるから、大まかな目安を告げることが必要だ。

この場合、正規料金を告げることはバカのすることだ。かなり低めの料金を打ち出すことが、その後の交渉を有利に進めることになる。「この前は〜円で行ってもらったけど……」のような、場馴れしたハッタリも有効だ。あとは、自分が納得できる料金で折り合いをつければよい。割と簡単にOKしてくれる運ちゃんが多いのは、やはり不景気でタクシー利用者が少ないためであろう。

タクシーの溜まり場では、向こうから声をかけてくる、営業魂のある運ちゃんもいる。この場合も、必ず一度は値切ることをしたい。まず吹っかけるようなことはしてこないが、1000円〜2000円は負けてくれる場合が多い。気をつけなければならないのは、いわゆる「白タク」だ。銀座などでは、昔からそれを生業としているキチンとした? 白タクもいるので安心だが、悪質なの引っかかってしまうとトラブルとなるから注意が必要だ。

交渉は、一人よりも相乗りのほうがやりやすい。味方がいるから、少々ムリな要求も突き付けやすいし、トラブルにもなり難い。「○○経由で△△まで……」というやり方で、同じような交渉を行えばよいのだ。

もう一つ、比較的交渉を受け入れてくれやすいタクシーを捜す方法もある。タクシーのボディには、会社名の他に「深川」「墨田」などのような地域名が記されている。目的地方面やその通り道(タクシーの地域名でも自分の目的地でもよい)の地域名が書かれたタクシーを、交渉相手に選ぶのだ。これは「戻り車」というヤツで、客を乗せて来たが戻るときに空車で戻りたくない、という車だ。だから飲んで帰る客を捕まえるために客待ちしているのだ。

気安く応じてくれる運ちゃんの行動を追ってみるのも面白い。乗った後、空車札を何に切換えるかを見るのだ。「乗車」であれば通常の仕事、「迎車」や「回送」であれば、白タク行為のアルバイトだ。要は料金を会社に入れるか自分のポケットに入れるかを判断するのである。これについては気が付いても指摘しない方が良いだろう。

このようにタクシーも少しの勇気と機転を利かせれば、通常料金よりもお得に乗ることができる。


2001.12.25

年賀状。

年賀状という習慣にいつの頃からか疑問をもつようになった。外国では、クリスマスカードが年末年始の挨拶を兼ねているようだ。「I wish you Merry X'mas and happy new year」という決り文句だ。これは、クリスマス関連の曲の歌詞などでもよく使われるから、誰でもおなじみといえばおなじみだ。日本の場合、クリスマスは別のイヴェントとして勘違いされているから、カードを送る習慣はあまりないようだ。

小さな頃は、親からもらった年賀状に様々な趣向を凝らして親しい友人などに送っていた。誰から来ただとか彼からは来なかった……などと一喜一憂した。歳を重ねるごとに送るのももらうのも枚数は増えていき、人の繋がりが広がっていく不思議さがなんとなく面白かった。

社会人になるとさらに繋がりは広がり、12月の声を聞く頃から準備を始めないと間に合わなくなってくる。ワープロやパソコンの導入によって「決り文句」や宛先などの書き込みが楽になったことは確かだが、何か一言「肉筆」で書かないことには何か余所余所しい気がしてならない。結局、全て手書きしていた頃と大して変わらぬ時間や手間が、この年賀状発送という作業にはかかるのだ。

こういうことに手間を惜しむことは吝かではない。

様々な環境の変化と共に、過去付き合いがあった人たちが、年賀状の行き来だけの希薄な関係になり、そのうちそれもなくなってしまう。自分の人生を遡っていくに連れて、そのような関係の人たちが増えていく。今はもう、どこで何をしているのか分からない人も多い。人付き合いが悪く、友達が少ない私だが、やはりこういうことは非常に哀しい。

人は忘れる生き物だ。フレッシュで頻繁に付き合いのある人以外は、普段の生活で思い出すことも少ない。そういう関係になってしまった人たち。決して仲違いしたとか嫌いになった、という理由で希薄になってしまったわけではない関係なのだが、何時の間にか、気がついたときには希薄になっていた。

過去非常に親密であったが今では消息も定かではない人、普段から顔を合わせていていつでも挨拶できる人……こういう人たちを除くと、私には特に年頭の挨拶をする必要のある人というのがいないことに気づいた。というわけで、何年か前から「年賀状を出す」という行為を一切止めてみた。昔から付き合いのある友人たちで、こんな私に毎年くれるのは少ないが、そういう人たちには別の形で誠意を表している。

年賀状のかわりに、親しい人にはクリスマスカードを送る。誠意といってもこの程度だ。


2001.12.21

13:30。東京にも、しんしんと雪が降ってきた。

寒さに弱く、雨や雪が嫌いな私は、既に活動限界ギリギリだ。上司に、雪が降ってきたので……という理由で早退を申し出てみたのだが、一言の元に却下された。

そんなことを書いているうちに、雪は霙に変わり、気がつくと現在(15:00)は止んでいる。

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「愛」という感情は、性衝動を克服できるか?

少なくとも男、オスはムリなのではないだろうか? 愛する恋人と歩いていても、愛する妻と歩いていても、すれ違う「良い女」には目敏く気づく。(同行者に)気づかれないように、そっと後姿まで追ってみる……などということは日常茶飯事であろう。綺麗でスタイル抜群のお姉ちゃんとすれ違った男が、思わず振り返ってお姉ちゃんを追いかけてしまい、一緒にいた恋人(妻)に耳や頬っぺたを引っ張られてこちらを向かされる、などという映画に良く使われるワンシーンも、そうした男の習性? を如実に現している。

愛する者がいながら、男たちが風俗産業や浮気にはしるのも、男の側に「愛」がないのではなく、「愛」では「性衝動」を抑制できないからであろう。

男としては、1日24時間・1年365日セックスがしたい! と思っている。しかし、女性はある一時期(大抵は付き合い始めてしばらくの間)を過ぎると、別の事柄から幸せや満足感を得るようになり、性欲については希薄になる傾向にある。ましてや結婚・妊娠・出産となれば、育児に全精力が注がれ、オットとの性生活など二の次以下の事柄となってしまう。

もちろん、女性の性欲が無いということではない。性欲が高まるバイオリズムの周期が長いのだ。これに対して男のバイオリズムの周期はきわめて短い。臨機応変に周期を変化させることができる、といっても過言ではないだろう。しかし、周期を短くする方へは臨機応変でも、長くすることは出来ない。女性のバイオリズムの高まりを待っていたら、どれだけ高まる性欲を我慢しなければならないか? 考えただけでイヤになる人も多かろう。

さらには、女性にはシチュエイションやムードというものを重視する。長い時間をかけてセックスまでの過程を楽しむのだ。これを逆手にとって、恋人や妻を「その気に」させることは可能だ。しかし、時間も金も余裕も無いオスたちは、手っ取り早く性欲を処理するために風俗店や浮気、はたまた自慰行為で満たされない性欲を処理する。

そこで男たちは「ハーレム」を夢想する。

そもそも四足の動物界では、ハーレムが存在する。強く優秀なオスの子孫をできるだけ多く残すことが、自然界では当然の摂理だからだ。人間とて生物の一端をになっているから、男は女と見れば自分の種を残したい! と思うのだ。しかしながら、哀しいかな人間の場合、種を残す「行為」そのものが独立してしまい、種を残したいのではなく「セックス」したい! にすりかわってしまっている。

アラブ世界では、昔から「一夫多妻制」が有名だ。力のある者、財力のある者は多くの妻を娶ることができるのだ。そのおかげで? サウディ・アラビアでは数千人の「王子」と呼ばれる人々がいるし、クウェイトでも数百人の王子が存在する。また、砂漠の中にある小国(いわゆる首長国で、国際的には認知されていない)では、現在もアラビアン・ナイトさながらの世界が展開され、ハーレムも公然と作られているという。

しかし、このハーレムの主となるためには、力や財力以上に精力、体力が抜きん出て強くなければならない。発情期を迎えた偶蹄目のハーレムでは、若いオスたちがハーレムのメスを狙っている。王はこれらを追い散らしながら、あるいはハーレムを狙う挑戦者を退けながらセックスに明け暮れる。ほとんど飲まず食わずの状態で発情期を過ごす王は、最後にはゲッソリと窶れ、悪くすると力尽きてしまう場合もあるという。人間の場合とて同じである。集められた女たちを等分に相手をしなければならないから、その精力たるや我々の創造など遠く及ばないことであろう。

そうかと思うと、狼や鴨の一種のように「一夫一婦制」を貫く動物もいる。

シートン動物記の「狼王ロボ」の話しなど、涙無しには読むことは出来ない。夫婦間の絆が「愛」によって貫かれた美談である。「愛」とは、もちろん精神的な支えであり象徴である。「病は気から」という言葉のとおり、精神は強く肉体に影響する。精神的な強さで肉体を制御することは、可能なのである。

一人の異性と長く寄り添ううちに、愛は薄れて惰性で生活を送るようになる……。これは私には信じることの出来ない話しである。確かに、フレッシュな情熱の激しさというのは、時間と共に沈静化するだろう。しかし、それは愛情が薄れたのではなく、穏やかなものに変化していったのである。激しく情熱的な愛は、相手を失ってしまうかもしれないという不安感の裏返しであり、穏やかな愛は、相手が自分の物になったという安心感の現れと考えることが出来よう。

「見返りを求めることなく、与えつづけること」こそ、愛情の真の姿であると私は考えているから、それに値する対象は、そうそう世の中にいるものではない。言い換えれば、我妻を置いて他にいないということになる。そういう対象を精神的にも肉体的にも裏切ることは不可能である。例え浮気か?! というシチュエイションに陥ったとしても、精神的ブレーキが肉体を制御する(ハズである)。

最後はガラにもない話しになってしまった。


2001.12.20

「ロッカー・ルームでトラブルが発生しましたら、内線でフロントまでお知らせください」

私が行っているスポーツ・クラブの、ロッカー・ルームに貼られているお知らせだ。つい最近、私もトラブルに巻き込まれた。原因は些細なことである。

トレーニングを終え、シャワーを浴びる前にサウナに入った。気持ちよく最後の水分を搾り出して、汗を流して帰ろうというときであった。サウナの外に引っ掛けてあったタオルを取って、シャワー・ルームへ向かおうとしたとき、後ろから「おいっ!」と声をかけられた。振り返ると、痩せ型でいかにもひ弱な「モヤシ」体型の男が顔を真っ赤にして立っている。

「それ、オレのタオルだ!」

「えっ? ああ、そうですか。スミマセン」

ミマセンじゃないんだよ。それはオレのタオルだ!」

「ああ、大丈夫ですよ。まだ使ってませんから。スミマセンでしたね」

「そういう問題じゃないんだよ! オレは金出してタオル借りてるんだ! どうしてくれる?」

「だったら、ボクのを使ってください。こっちもまだ使ってませんから」

「だから、そういう問題じゃないんだよ! そうしてくれるって聞いてるんだ!」

「……。(この時点でかなり怒っている)」

「何とか言えよ!」

「じゃ、金返してやるよ、いくらだ?(だんだん言葉遣いが荒くなってくる)」

「だから、そういう問題じゃないって言ってるだろ!」

「(プチッ!)いい加減にしとかないと、ケガするよ(タオルを相手の顔にたたきつけて後にする)」

会話だけの再現である。補足説明をすると、私は割と自分の物に無頓着なところがある。ましてやスポーツ・クラブで貸し出しているタオルであるからなおさらなのだが、要は私が自分が引っ掛けていた場所を間違えてタオルを取ってしまい、それを見咎めた持ち主が私に苦情を言ったのである。

入会形態によっては、タオルの貸し出しは有料となるのがこのスポーツ・クラブの規定だ。施設を使用するのに、金をケチるとタオルの貸し出しが有料になるのだ。確かに間違えた私が悪い。しかし、たかだか200円程度のことで、ここまで言われる謂れはない。「だったら、どうしろって言うんだよ!」的禅問答(?)にも似た会話に、心底ブチ切れた。よく手が出なかったものである。

サウナは、水着等の着衣は禁止である。上記の会話が、素っ裸のチ○コ丸出し状態で交わされていたことが、何より哀しく情けない。


2001.12.19

中東。

ニューヨークのテロ事件について書いた、過去のこのTextでも、この影響でパレスティナ・イスラエル関係に影響が出なければ良いが……というようなことを考えていたのだが、実際には最近の状況は悪い方向へ行ってしまっている。相次ぐ自爆テロと報復、イスラエルからのPLOへの取り締まり要請、おざなりに処理されつづける取締り、イスラエルの強硬手段発動……という、誰もが予想できるような展開を見せている。

パレスティナ問題に限らず、中東問題全体の根本には「怨念」や「憎しみ」がある。これは、ローマ帝国やオスマン・トルコ帝国を代表とする様々な「侵略」に曝されてきたアラブが、千年以上の歴史の中で蓄積してきた感情である。領土拡大の侵略に加えて、第一次世界大戦後は、石油をめぐるヨーロッパやアメリカの支配が続く。

その中で、巧みに利用され、その都度裏切りを経験したアラブとそのナショナリズム。近年になって怨念や憎しみは、その蓄積の度合いを加速させた。冷戦の構造の中で、再びこの感情は利用されることになる。旧ソ連は、テロリズムを利用することによって資本主義の根底に打撃を与えようとしたのだ。アラブ(特にパレスティナ)は、長年にわたって溜めてきた怨念を、テロという手段によって「怒り」の感情として爆発させたのだ。

さらに第二次世界大戦後、パレスティナにイスラエルが建国された。この話しも、戦前・戦中からユダヤ人と列強の間では進められていたのだが、アラブ・パレスティナ側とは何の相談もなかった。独立戦争(第一次中東戦争)を経て、イスラエルは建国されるが、この後イスラエルは西側先進国が中東に作った最重要戦略拠点として機能することになる。要は、中東で不測の事態が発生した際、先進国(言い換えればアメリカ)が安全に上陸できる場所となったのだ。

イスラエル建国によって、アラブの怨念は、パレスティナ人を前面に押し立てた形でイスラエルという恰好の捌け口ができたことになる。産油国は、自国の軍備拡張もさることながら、パレスティナにイスラエルの国家予算を超えるほどの援助を行う。

イスラエルとパレスティナの主張を見てみると、どちらも頷けるところがあって面白い。

イスラエルは、有史以前からそこに住んでいたことを根拠にパレスティナの地に自国を建設することの正当性を主張する。しかし、パレスティナ側は、パレスティナの地が他の勢力に侵略された過去の歴史の中で、ユダヤ人は一度パレスティナの地を捨てたこと、そしてパレスティナ人は残ったことを根拠に、パレスティナの正当性を主張する。

このユダヤ人がパレスティナの地を捨てた、という主張は正しい。その後ユダヤ人はヨーロッパ各地へ散っていき、様々な迫害(「ヴェニスの商人」やホロコースト)を受けることになるのだ。いわゆる受難の時代である。この受難の時代の出来事をユダヤ人が逆手にとって、ヨーロッパ人たちの罪悪感を掻き立て、ユダヤ人にとって有利な方向へ物事を進めていることは確かだが、これは彼らが長い歴史の中で学んできた「テクニック」である。

また、現在のアラブ諸国の国境線は、ヨーロッパ諸国とアメリカによって引かれたものであることは有名だ。地図を見れば、直線で描かれた国境線が目立つことでも分かるだろう。こうして線引きされた国々には、線を引いた国々によって勝手に「王」が置かれた。これらの王は、現在にまで続いている国もあれば、クーデターによって打倒された国もある。

王制であろうが、民主制(本当の意味では独裁制だが)であろうが、アラブ諸国の国家元首は、非常に権力志向であるという共通点がある。エジプトの故ナセル大統領は、アラブで初めてクーデターを成功させた人物であるが、彼がブチ上げた構想というのが「アラブの統一」である。これがその後のアラブの指導者や国家元首たちの共通の目標となる。要は、自分が「アラブの盟主」になる! という目標である。このために、アラブ諸国は互いに疑心暗鬼や相互不信に陥り、肝心なときにまとまりがつかなくなるということを繰り返してきている。

さらに前述の如く、欧米諸国への抜き難い不信感があるから、アメリカやヨーロッパ諸国が「仲介」を申し出たところで、本当の意味での和平や条約の締結などできない。加えて、いわゆる「異教徒」を全く信用しない、という頑なな姿勢があるから、おそらくイスラム教国の仲介が最も効果的であろう。同じイスラム教徒でありながら、宗派が違うだけで対立の要因となってしまう国々である。極めて対応が難しい。

数千年にわたって砂漠という厳しい環境で暮らしてきた彼らは、世界中の生命線でもある石油を使い切ってしまっても、再びナツメヤシと羊の生活に戻ればよい、という人生観を持っていることも、交流の場でスムーズに話し合いが進まない要因の一つとなっている。

こうして考えてくると、中東問題については「静観」するしかないのか? という結論に達してしまう。

次の世代の指導者たちに期待しようにも、長年にわたって蓄積してきた感情は、そう簡単に解消することは出来ない。ましてや争いの現場で育ってきた者にとっては、なおさらである。やはり、テロの温床となる最下層の人々や、難民キャンプの人々の生活を底上げするなどの地道な努力が、最終的には効果をもたらすのだと思う。こうして底上げされた環境で育った世代が指導者となったときはじめて、アラブ社会が世界に溶け込めるのではないだろうか?

長い時間と継続的な努力が必要だ。


2001.12.17

週末(特に土曜)は、強風に曝された海であった。

いつものポイントは、強風のためにクローズ・アウト。風によって波が崩され、乗ることが出来なかったのだ。例え乗れる状態の波であっても、強風のために真っ直ぐ立っていることも困難なぐらいであった。何せ、国道を移動中に風で運ばれてくる波の飛沫で車が潮だらけになってしまうのだ。そこで、いわゆる「風裏」となるポイントを地図上から推理し、移動することにした。今回の風は、西から吹いてくる。したがって、東に向けて海が開けている場所を探せばよいのだ。

探し当てたポイントが、いつものポイントから岬を回りこんだ向こう側だ。漁港の隣の砂浜で、うねりの状態や風のあたり具合が非常に良かった。しかし、風が強いことには変わりはない。奥さんなど、長く大きいロングボードを持つと、風を受けて前に進むことが出来ないくらいだ。完璧なオフショア(陸から海へ向かって吹く風)で、スプレー(波頭が崩れるときの飛沫が後ろへ飛ぶこと)が見事で、見ている分には大層綺麗だ。しかし、テイクオフではその飛沫をまともに被ることになるから、まるで嵐の中をテイクオフしていく感じになる。

風の強さを除けば、サーフィンをするには絶好のコンディションであった。大きさはセットで肩近くの程好さ、約100m近い長さの非常に整ったうねり、綺麗に左から右へ崩れていく波と、言うこと無しで大層楽しんだ。

事件は、このような気分の良い波に乗れて大満足のうちに波乗りを終え、面倒な後片付けも済み、帰る前にちょいと海を見ようか? などという一種の寛ぎタイムに、唐突に起こった。

ここ最近のお気に入り、クリームパンを食べながら海を見ていた私である。波乗りを終えた心地よい疲労感と充足感を満喫していた。……と、突然目の前を黒い影が過ぎった。同時に右目の直ぐ下に強烈な衝撃! 驚くと同時に素早く右へ振り返った。そこには飛び去っていくトンビがいた。彼も驚いたのだろう。私の方を振り返っていた。一瞬、我々は目が合った(……ような気がする)。

状況を客観的に描写すると、至極簡単である。パンを持ったまま、ボケ〜ッと海を眺めていた私を上空を舞っていたトンビが発見する。「一丁、ヤツのパンを頂くか!」とばかりに急降下。そこへ気配を察した(これもそのような気がする、というだけなのだが)私が、振り返るように顔を左へ向けた。目測を誤ったトンビは、よけ損ねて羽を私の顔面に叩き付けてしまったのだ。

目の周りは、微妙な動きをするため非常にデリケートだ。皮膚が薄く、骨に直接貼り付けたような状態になっている。そこを羽で叩かれたのだから、当然切れた。キックボクシングで肘を食らうのと同じ状況だ。違いといえば羽のほうが柔らかいから、衝突のときの衝撃がやや弱いこと、肘は縦に振られるから、切れるとしたら目尻や眉毛の付近であることであろう。約1cmの傷口からは、傍から見ればちょっと驚くほどの出血があった。

痛みは殆どない。あるのは驚きだけだ。出血が血の涙のように頬を垂れる。車の中で休んでいた奥さんに声をかける。

「鳥がぶつかったよ……」

「へ??? ……あ〜!!! 血が出てる!」

となり、車の中に常備してある救急セットで処置をした。

このとき、どうも奥さんの動きに私は違和感を感じていた。その違和感がハッキリしたのは、帰宅して酒を飲みながら落ち着いたときであった。

「血ってさぁ、遠くから見ると黒く見えるのよ。だからね、最初あなたは、鳥にウンコをひっかけられたんだと思ったの……」

とゲラゲラ笑いながら言うではないか! 奥さんは、本来血を見ると卒倒するようなタイプの人間だ。その彼女が、妙に冷静に私の傷の処置に動いたのだ。昼間感じた違和感は、そこにあったのだ。私は「ぶつかった」とハッキリ明言していたのにもかかわらずこの発言である。完全にバカにされているとしか思えない。

翌日から、傷は脹れ始めた。現在はうっすらとない出血が確認でき、腫れも引いていない。まるで試合後のボクサーのようだ。漁港の隣という場所柄の事件である。というのも、漁港付近は、おこぼれの魚をあさりに多くの鳥たちが集まってくる。いつものポイントよりも鳥の数が多いことは、入ったときから気づいていた。さすがに手に持ったパンを攫おうなどという、不届きなトンビがいるとは思わなかったから、私も油断していたのだ。

次からは、海だけでなく頭上をも注意しなければならない。

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モヤシには、カレー味が合う。

よくサラダなどで、カレー味のモヤシが出るが、これを家庭で再現しようとするとなかなか上手くいかない。茹でたモヤシにカレー粉を塗して混ぜても、モヤシの中にまで味が染み込まないのだ。これを解消する手立てが「カレー粉を入れて茹でる」である。この方法でやれば、モヤシはキレイに黄色くなり、中にまでカレー味が染み込む。

しかし、何と言ってもモヤシを最も美味く食べるなら「カレー味炒め」だろう。とくに大豆モヤシが良い。オリーブ・オイルでサッと炒め、塩コショウで味を調える。ここにカレー粉を投入するのだ。「焦げたカレー味」というのが美味いのは、ドライカレーで実証済みである。したがって、このモヤシの炒め物が不味いはずはないのだ。

肉料理の付け合せに、単独でご飯のおかずに。切れ味鋭い割に、意外としっかりと味を主張するから、様々な料理のお供になるのだ。もちろん、酒のつまみにも抜群で、バーボンのソーダ割のようなキレのある類の酒が相性抜群だ。

もう一度。モヤシには、カレー味が合う。


2001.12.13

クリスマス雑文祭り」というところに参加するため、こういう物(「サンタクロースは海からやってくる」)を書いてみた。

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プライヴェートは平穏そのものなのだが、仕事の方はバタバタが続いている。

食事時の酒について、過去色々書いてきたが。

本当は「メシを食うときは、牛乳!」と思っている。特にご飯物のときには絶対に欠かすことが出来ない、重要なアイテムである。和食、中華、イタリアン、フレンチ、エスニック……考えてみれば何を食べるときも、欲しくなる飲み物は「牛乳」である。

その他、牛乳がベスト・マッチなのが煎餅だ。揚げ煎餅はダメだが、醤油味系や濡れ煎餅、柿の種は、絶対に牛乳と一緒に食べなければならない。まだ私が若かりし頃、人生で最も食い溜めが効く高校生の頃は、柿ピー一袋で1リットルの牛乳を飲んでいた。

今でも、我が家の牛乳消費量は一週間で2リットル以上だ。奥さんは殆ど飲まないから、ほぼ私一人の消費量と考えて良いだろう。これが一般的に見て、多いのか少ないのかは定かではないが、私自身の感覚としては、もう少し多くても良いと考えている。

狂牛病が取りざたされている昨今、牛乳とて決して安全ではない。病気などでコロッと逝く前に、九牛病にやられるかもしれない。


2001.12.12

「いちごオ・レ」の500mlパックを買って、飲みきれずに苦しんでいる。


2001.12.11

オープン・エア。

例えば屋台。焼き鳥、ラーメン、おでんを代表格に様々なものがある。さらにそれに類似するものに、車を改造した移動店舗。こちらは取り扱う品目がヴァラエティに富んでいる。原宿や代官山などには、この手のお店が多い。私が気に入っているのは、旧山手通り沿いにいつも店を出している「コーヒーショップ」だ。前を通ると、いつもコーヒーの良い匂いに誘われるように吸い寄せられるように足がそちらへ向く。まさに誘蛾灯に引き寄せられてバチッ! と焦げる虫のようなものだ。

このようなオープン・エアのお店は、もちろんその移動式の店舗の飾り付けなどで客を引き寄せる効果もあるだろうが、やはり何といっても「匂い」「芳香」で客を引き付ける。焼き鳥を焼く煙混じりの香ばしい香り、湯気のたっぷり混じったラーメンの匂い、鯛焼きやどら焼きのカステラの部分が焼ける何とも言えない甘い匂い、先に述べたコーヒーの良い香り……。

こういった様々な「美味しい匂い」を空気中に放つことで、蝶や蜂をさそう花の如く屋台は存在する価値を主張する。オープン・エアの最大の武器であり、魅力である。このように匂いを放つのは、屋台ばかりではない。「お茶屋」さんは、店先でお茶を焙煎することによって道行く人々の脚をすこしでもこちらへ向けようとしている。また、私が贔屓にするネパール料理の店は、風向きによっては店の50m手前からも嗅ぎ取ることができるような強烈な「カレー臭」を放射している。もっともこれは、ただ単に換気扇から出されただけで、お店としては意識的に匂いを放射しているわけではないが……。

なにはともあれ、この匂いと、オープン・エアというシチュエーションが、味の方はかなりのレヴェルまでカヴァーしてくれるから、いわゆる脱サラでこういった商売を始める人もいるのだろう。

しかしである。立ち上る匂いが、不快感を与える場合もあるのだ。

例えばコンビニのおでん。これは最悪である。ドアを開けて入った途端、大層不快だ。煮詰まって、出し入れの際にこぼれた汁が焦げたり変質したりした匂いが混じり、密閉された空間にその他雑多な匂いが追い討ちを掛けるように混入している。この匂いの最大の原因は「木の蓋」ではないか? と分析している。木の匂い、そしておでんの汁を吸い、それが変質してきた臭いがレジ付近に篭っている。非衛生的で、とてもではないが「おでんを食べよう!」という気にはならない。

同じような「逆効果」的匂いの放出には、肉まん系の保温器がある。これもおそらくこまめな掃除を怠っていることが原因なのだろう。蓋を開けたときの臭いが、何とも言えず嫌いだ。横浜の中華街あたりで、湯気を吹き上げながら蒸されている中華まんとは明らかに異質な匂いである。

決して不快感ではないのだが、傍迷惑であったり通報の恐れがあるものもある。

例えば秋刀魚。もう旬の時期は過ぎてしまったが。七輪などで焼く秋刀魚は、素晴らしく食欲をそそる匂いを放出する。魚屋の店先で焼かれている秋刀魚など、匂いだけでご飯が食べられそうなほどである。しかし魚の脂は、熾った炭火の上に落ちると物凄い煙を上げる。強烈な白煙は、一般家庭の窓や軒先から放出されると、火事などのあらぬ疑いをかけられかねない。

焼き鳥でも、皮はやはりその脂が炎を上げたり、秋刀魚ほどではないにしてもかなりの煙を上げる。この煙は、秋刀魚同様非常に香ばしい匂いがして、食欲を大層そそる。道行く人の足を止めるに足るだけの力を有しているのだ。しかしこの煙も、2〜3本ほどならば大したことはないのだが、7〜8本同時に焼くとかなり強烈なものになる。やはりあらぬ疑いを掛けられる恐れがあるのだ。

これらの事例は、なにも食べ物に限ったことではない。

例えば「プアゾン」という、クリスチャン・ディオールのパヒューム。水商売系のお姉さんたちの必須&定番アイテムとなっている。そういうイメージからか、この香水には「淫靡」「好色」など、あまり健全でないイメージがつきまとっている。まぁ、名前からも分かるとおり、男をその気にさせる、参らせるための香りだから、仕方がないといえば仕方がないのだが……。

しかしである。この香り、薄暗くやや怪しげな雰囲気で嗅ぐと前述のような気分がし、付ける人によっては「下品」などという感じがするのだが、良く晴れた昼間などにオープン・エアで嗅ぐと、意外に「爽やか」であったり「上品」であったりといった割と健全なイメージになるのだ。ディオールの中でも、最も品のない? プアゾンがこれだけ変わるのだ。仄かに香るディオリッシモなど、オープン・エアでは拡散してしまうのだろう。

シチュエーションによって、良くも悪くもなる匂い。良い状況で出会えば、これほど気持ちの良いものはない。少なくとも悪い状況で発散する立場にはなりたくないものだ。


2001.12.7

今年もクリスマスが近づいてきた。

昨年もそうであったのだが、我が家の「クリスマス主任」は私である。主任とはいえ、やることいえば……クリスマスに向けて部屋その他を「それらしく」飾り付け機運を高め、当日はドン・ペリニオンのシャンパンを開け、舞台を整えるなどの雑用係だ。表には出さないが(とはいえバレているのだが)、私は世間一般の如くクリスマスを祝うのが好きではない。クリスチャンでもないし、だいいちこんなことは女子供(差別発言!)のすることだ、と思っている。

それでも、数年前に手づくりし、毎年使いまわしている「クリスマス・リース」を玄関のドアの外側に引っ掛けた。リヴィングのドアにも引っ掛けた。玄関の正面には、今までタペストリ代わりにアンティークの染物の布を掛けていたが、クリスマス仕様のタペストリ(ハワイアン・キルト風)に変えた。さらには、アンティークの臼を使ったテーブルの中に、これも数年前に近くで拾ってきて金色のスプレーを吹きかけた「松ボックリ」などを入れて、それなりの雰囲気作りに力を入れた。

私としてはこれでもう充分! というくらいの飾り付けをしたつもりだ。しかし、奥さんはまだまだ不満らしい。やれクリスマス・ツリーが欲しいだの、もっとロマンティックな雰囲気が欲しいだのと勝手なことをおっしゃる。しかも、本物の樅の木が欲しいのだそうだ。再びしかしである。樅の木は結構成長が早いらしいのだ。友人が子供の頃、毎年本物の樅の木を買ってもらっていた。なぜ毎年かというと、成長が早くて、前年の樅の木は家に入れられないくらいに大きくなってしまったのだ。

これも去年書いたような記憶があるのだが、飾り付けるのは良い。何がイヤかといって、それを片付けることなのだ。これは虚しい。人が食い散らかしたパーティの後片付けのようなものだ、と思う。どうせ片付けるなら、簡単に済む方が私としては良いのだが、我妻は、そうは考えていない。ここにハードに生きるエクストリーマーと女子供(再び差別発言!)の違いがあるのである。

なにはともあれ、早くクリスマスが通過してくれることを願うばかりである。


2001.12.6

「棺」を買った。

外装はグレーで、全体的な形はオーヴァル。内装は前面黒である。全長295cmほどの、私が入るにはピッタリな大きさだ。しかし、これには私が入るわけではない。この棺、材質はナイロンとウレタンを主体とする、サーフボード用のツアー・バッグなのである。デスティネイション社の「Coffin Bag」という、そのものズバリなネーミングに、いささか不気味さを感じなくもないのだが……。

このバッグは、おそらくサーフボードのツアー・バッグとしては最も頑丈なものである。なにしろ耐衝撃吸収素材を分厚くつかったシロモノで、バッグ自体の重さが10kg近くあるのだ。これは、ロングボードを3枚収納できる容量があり、概観がまさに「棺桶」なのだ。海外の有名プロたちがツアーに使うだけあって、頑丈なだけでなく、バッグの中に寝ても、非常に寝心地がよい。というのも、プロとはいえ、ツアーでは自分で移動をする。半分野宿のような格好で海辺で寝ることもあるらしいのだ。このときには、ボード・バッグの中で寝るのだ。

話は逸れて行ってしまったが。早速我が家のボードを収めてみた。9.5フィートのロングボードがピッタリと収まる。蓋を閉めて持ち上げてみる。お、重い! さすがにボード2枚にバッグの重さが加わると、凄まじいものがある。奥さんなど、持ち上げることは出来るのだが、到底歩くことは不可能だ。私でもかなりヨタヨタする感じだ。

ここで問題が持ち上がった。我が家の車はランドクルーザーだ。あの高い屋根の上に、果たしてこの重量物を持ち上げることができるのだろうか? 俄かに不安感が高まってくる。しかし、ここはバカ夫婦。難しい問題は先送りにし、本番一発で何とかしよう! ということで落ち着いた。

普段の移動(毎週海へ行くような)ならば、ニット製のソフト・ケースで充分なのだが、さすがに飛行機で移動するとなれば頑丈なケースが必要になる。もちろん、年末からの沖縄旅行に備えて買ったのだが。買ったは良いのだが、バッグ自体を収納しておく場所がないことに気づいた。しばし部屋の中で、棺桶の中に並んで立って呆然としたバカ夫婦だ。部屋の様々な壁面に押し当ててみて、ピッタリハマる場所を探し出した。現在、自転車とサーフボードを置いてある奥の壁面だ。

何とか部屋を狭くせずに収納場所が見つかったのは、奇跡的である。収納のことなど全く考えていなかったのだから。我々夫婦には、このような「後先考えず」突っ走る傾向があるようだ。


2001.12.5

鍋の季節である。

様々な鍋の種類があるが、鍋の後、残りの汁をどう活用するか? ご飯を入れて雑炊やおじやにするか? うどんやラーメンを入れて食べるか? 様々な選択肢があるだろう。麺類は別として、ご飯やおじやの場合、ご飯が汁を吸って大層量が増えてしまい、食べきれなくなってしまった……などという事態に陥ってしまった経験を持っている方も少なくないだろう。こういった事態を回避するために、私は一つの解決策を見出した。

名付けて「簡易リゾット作戦」である。

先ずは残った汁をキッチンペーパーなどで漉す。その場や次の日に食べないのであれば、そのまま冷凍すると長期間の保存ができる。漉した汁に「生米」を一合直接投入する。これを火にかけ、米の硬さを見ながら炊き込んでいく。この際、具を入れるも良し、入れないも良し。鍋のときの残りをそのまま残しても良いが、野菜などだと柔らかくなりすぎてしまうこともあるから、注意が必要だ。炊き始めて約30分もすれば、リゾットの出来上がりだ。味付けは、煮詰まってしまうことを考慮して、火を止める寸前に行うことがポイントだ。

鍋の種類によって和風、中華風、コリアン風、イタリアン風とヴァリエイションは非常に豊かだ。また、夫婦二人で食べるなら米の量は一合で済むから、ヘルシーだし経済的でもある。我が家では和風の場合、具を入れずに味付けをする際「岩海苔」を大量投入する。鍋のときに出たダシと岩海苔のダシで素晴らしい仕上がりになる。基本的に味付けはシンプルに「塩」のみというのが美味い。ダシの効果を最大限に引き出すためだ。

残り汁を漉すことによってスープは澄み、非常に上品な味わいに仕上がる。

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冬といえば、ホクホクのジャガイモやカブを使ったコンソメ・スープである。

ジャガイモ、カブ、ニンジン、玉葱、白菜(特に芯の部分)、ベーコンなどをあっさり煮込んだスープは、大量の胡椒投入によって身体が温まるばかりでなく、非常にヘルシーだ。しかし、ある程度の「量」を作らないと美味くないから、一日で食べきれない。翌日も暖め返して食べるというのも良いが、それでは芸がない。そこで「野菜のポタージュ」を作るのである。

スープの中の野菜や肉をミキサーに取り、グジュグジュ(汚い!)に粉砕する。これをスープに戻し、牛乳と生クリームを適量加えて煮込むのだ。野菜によって自然にできるトロみは、既製品のポタージュに使われるコーンスターチなどで無理に作ったトロみとは全く違い、大層美味だ。しつこさもないから、ポタージュなのにあっさり食べることができる。

カリカリに焼いたトーストと共に食べれば、美味さは倍増する。

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沖縄の家庭で常備される「茹で豚」というのがある。

豚のバラ肉のブロックを使った簡単にできるものだ。有名な「ラフテー」は、これを味付きの汁で煮込むのだが、茹で豚の場合、極端な話ただ水から茹でればよいのだ。まぁ、これでは芸がないので、生姜やネギの青い部分、泡盛(少々)を加えてゆでる。鍋に水を張り、肉、生姜、ネギ、泡盛を加えて火にかけるだけだ。約30分も茹でれば出来上がりだ。

この茹で豚、もちろんこのまま食べても美味い。芥子醤油やラー油醤油、マヨネーズなどで食べるのが良い。刻んでサラダにトッピングしたり、前述のリゾットの具にしたりと、使い道は無限だ。茹でた上でさらにベーコンの如くカリカリに炒めるというのも非常に美味い食べ方だ。この炒めるという行為は、次に紹介するチャーハンの具に最適なダシを提供する。

先ずは弱火のシナ鍋(油は引かない)にサイコロに切った茹で豚を投入する。ここからがポイントなのだが、脂身からいわゆるラードがでるから、ジックリゆっくり炒める。充分に脂が出ると、肉はカリカリになりかなり縮む。ここで最大限の強火にして卵、刻みネギを投入し、充分なじませる。あとはご飯を投入して適度に煽れば出来上がりだ。

ラードで作るチャーハンは絶品である。


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