スポーツとインプロビゼーションとイマジネーションと... 2000.11.15


インプロビゼーション(即興性)とイマジネーション(想像力)。ジャズの演奏にとって非常に大切な言葉である。スポーツの世界にとっても、(一部の競技を除けば)個人、団体を問わず相手がいて勝敗を争うスポーツでは、重要な言葉であると思う。言い換えれば、スポーツとジャズは非常に近いものとして捉えることができるのだ。

このテーマを語る上で、前提条件とも言える事柄がある。インプロビゼーションもイマジネーションも、確かな技術の上でしか表現できないということだ。素晴らしい閃きが浮かんだとしても、それを実際に表現できなければ意味がない。ヘッドコーチが机上で理論を組み立て、それをロボットのように選手が表現するスポーツは、アメリカで考え出されたものだけだろう。

野球、フットボール(本来はサッカーに対して用いるのだが)、バスケットボール、バレーボールは、ベンチの側から頻繁にタイムがかかる。その度にヘッドコーチ(監督)から細かい指示が出る。また、ボールデッドの状態で、ゲームが動いているより止まっている状態のほうが多い。この間にも指示が飛び交っている。

また、野球ではバッテリーと打者、フットボールではクォーターバック、バスケットボールではポイントガード、バレーボールではセッターとゲーム中、常に中心となるポジションが決まっている。さらにはフットボールなど、攻撃と守備でチームが変わり、攻撃にしろ守備にしろフォーメーションがキッチリと決まっていて、システマティックになり過ぎている。バレーボールにしても同じようなことが言えるだろう。

これに対して、ヨーロッパにおけるスポーツ(ほとんどがイギリス原産)では、ベンチからタイムをかけることはできない。ラグビーでは、監督がベンチに入ることすらできないのだ。テニスを見ても、試合中にコーチからアドヴァイスを受けることは禁止されている。サッカーでも、監督がさかんにコート脇まで出てきて指示を与えているが、到底すべてが選手に伝わっているとは思えない。

イギリス原産のスポーツにおけるボールデッドの状態は、完璧に試合の流れの中にあって、作戦やフォーメーションを立て直すための時間ではないのだ。要は、試合が始まってしまえば、ゲームの流れは選手に委ねられ、外的要因が入り込む余地がないのである。

格闘技に至っては、外的要因が入り込む余地はもっと少なくなる。なにせ、一対一なのだ。すべては闘っている二人の間だけでやりとりされる。

多人数のチームスポーツは、システマティックな中にも個性と創造性が必要とされる「ビッグ・バンド」、小人数のチームスポーツは、個性と創造性がせめぎ合う「クァルテット」、一対一のスポーツは、一瞬の油断も許されない、緊迫感溢れる「デュオ」というジャズの編成に置き換えられるだろう。

先ずはチームスポーツから見ていこう。

ラグビーの布陣を見ると、縦に薄く横に長いことがよく分かる。これは、斜め後ろにパスを出しながら、つまりは横に展開していきながらチームとして前進するからだ。その中で一人飛ばしのパスや、フェイクしてボールを持ったまま、逆方向へ切り込んでいく攻撃などのバリエーションを展開していく。

試合展開に応じて全員が前進し、後退する。したがって、全員に得点のチャンスがあるし、守備に貢献するチャンスもある。全員がチームとしてシステマティックに動き、試合の流れやその場の状況に即座に対応し、得点に守備に効果的な動きを模索する必要がある。十五人のプレイヤーを使った攻撃・守備パターンを組み立てて行けば、そのバリエーションはとんでもない数になる。見事にジャズ的スポーツと言えるだろう。

サッカーの場合は、やはり全員で攻めて全員で守るという概念ができてから、その攻撃や守備におけるバリエーションは飛躍的に増加した。その意味で「トータル・フットボール」や「リベロ」という概念を打ちたてた、ヨハン・クライフ(オランダ)とフランツ・ベッケンバウワー(ドイツ)の功績は大きい。

クライフは「トータル・フットボール」を引っさげて、ワールドカップ西ドイツ大会に登場、見事決勝まで駒を進め、その理論の優秀さを実証した。ベッケンバウワーは、スウィーパーという本来守備の最後尾でプレイすべきポジションを、攻撃に参加するポジションとして確立した。そして、この二つの理論が西ドイツ大会の決勝で対決し、僅差で「リベロ」の理論が勝利したのである。

ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(アルゼンチン)という選手がいた。いわゆる「神の手のゴール」や鮮やかなフリーキック、9人抜きのドリブルばかりが取り上げられるが、彼の本当の素晴らしさは、彼本来のポジションであるミッドフィールダーとしてのパスにある。信じられないような体勢や角度から、ため息の出るような鮮やかなパスが出る。しかも、パスをもらう側が最もシュートし易い、トラップし易い強さのパスなのだ。信じられないような、というところは彼が左利きで、ほとんど左足でしかプレイしないことも関係しているとは思うが、ビデオなどで見る機会があれば、是非彼のパスに注目してもらいたい。

クライフやベッケンバウアーがコンダクターやバンド・リーダーだとすると、マラドーナはまさに奔放なソロイストというイメージがピッタリだ。しかし、クライフは古典的なフェイント「クライフ・ターン」を生み出した卓越したフォワード、ベッケンバウアーはゲルトミュラーと並ぶ当時のドイツチームの得点源と、彼らがプレイヤーとしても世界のトップクラスであったことは言うまでもない。

サッカーの「トータル・フットボール」や「リベロ」という理論を生み出していく過程を考えると、ジャズ界の偉大なトランペッター、マイルス・デイヴィスが「モード奏法」や「トーナル・センター」といった理論を生み出していった過程がダブる。ここではマイルスの理論についての言及は避けるが、要は演奏のさらなる自由やバリエーションを求めて既成の概念を打ち破る試みだ。

ジャズもスポーツも、プレイの幅を広げるための試行錯誤が繰り返されているのである。

次に個人スポーツ。

ルールによる制約が多いボクシングやレスリング(特にグレコローマン・スタイル)がジャズにおける「ビバップ」やそれ以前のスタイルのジャズだとすると、数年前から注目を集めている「バーリ・トゥード」は究極のスタイル「フリー・ジャズ」に当るだろう。

ボクシングは拳の部分のみで行われる格闘技で、打撃を与えることが許される部位も限られている。その対極にあるのがタイ王国の国技、ムエタイだろう。拳はもちろん、蹴り、ヒジ、ヒザと打撃に使える部分をすべて使って行われる。攻撃を禁じられている部位も、急所のみである。また、首相撲という独特のテクニックがあり、この際に足を使わなければ、相手を投げることも許される。

自分の攻撃で、如何に相手にダメージを負わせるか? 格闘技だけでなく、勝敗を分けるスポーツの最大のテーマである。相手の体勢(布陣)を崩して、攻撃する。というパターンがもっともオーソドックスかつ効果的であるが、オーソドックスであるからこそ個性が物言うところでもある。

ジャズのソロのフレーズを、攻撃パターンのコンビネーションに当てはめれば分かる通り、そのバリエーションは数限りなくある。ワン・ツー(ジャブ・ストレート)を基本に、スリー(フック、アッパー、ボディなど)フォー(ストレート)とパターンを増やしていく。さらに蹴り、ヒザ、ヒジを加えることによって、パターンはどんどん膨らんで行く。相手の動きをこれに加えれば、もう数えることはできないくらいだ。

初期のリングスにヴォルク・ハンというロシアのコマンド・サンボの選手がいた。軍隊格闘技であるこのコマンド・サンボ。まさに殺しのための技である。彼の試合振りを見ていると「技の玉手箱」とか「技のおもちゃ箱」という言葉がピッタリくる。立っていても寝ていても、まったく淀みなく、流れるように関節技が繰り出されてくる。相手は、はじめて食らう技に戸惑い、なすすべなくギヴアップだ。変幻自在流麗華麗、素晴らしいソロを聴いたときと同じ感動を味わった。

陸上競技の世界でも、長距離走はランナーの駆け引きが如実に現れるジャズ色の濃い競技だ。集団から飛び出して先行するか? 集団ではどこに位置するか? スパートはいつしかけるか? などなど各人の考えが直接行動に現れるから、見ている方としても分かりやすい。ゆさぶりやフェイクといった狡賢さが、勝敗を左右するという意味では、ランナーはジャズ・プレイヤーというよりもむしろギャンブラーに近いかもしれない。

ここで前提条件に立ちかえってみよう。インプロヴィゼーションもイマジネーションも、個人の能力の上に成り立つというものであった。

ボール・ゲームであればパスやシュート、トラップ、さらには一対一の技術を高める。一方チームとしてのパターンも身に付けなくてはならない。格闘技で言えば、多くのコンビネーションやディフェンスの技術を習得する必要がある。肉体的・精神的疲労度、相手の動きへの対応などあらゆる状況において、自分の体が反射的に対応のための動きができる状態にしておくことがポイントである。

すべての状況で対応できる肉体の創造。持って生まれた才能もさることながら、血の滲むような努力と気の遠くなるような時間が必要だ。華やかな表の世界とは裏腹に、地道な努力を日々コツコツと積み上げていく別の世界がある。わずかな本番の時間のために、その何百倍もの時間を費やす鍛錬。

その上で発揮される、インプロヴィゼーションとイマジネーション。鮮やかに表現できるのは、多くのプロ選手の中でも本当に頂点に立つ、ほんの一握りの者たちだけなのである。スポーツ選手がプレイ中に見せる姿が、芸術的に美しい理由はこんなところにあるのかもしれない。


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