誕生


 膝より上は雑草や潅木に覆われているが、地面に這いつくばってみると、トンネルのような道がついている。

 獣道。さまざまな小動物が、何度も通ることによって自然に踏み固められた道。

 私は、時折地表から透かすように確認しながら、獣道を辿っていった。道は、何本もの道と交差し、あちこちで曲がりくねりながらも、確実に山を登って行く。下生えの雑草や潅木は、膝や腰で強引に薙ぎ倒した。

 時刻は、午後二時を回っていた。蝉時雨が、周囲の音を圧倒している。日の出と同時に登り始めたから、休息を除いても、もう十時間近く歩きつづけている。

 雑木林の中で、夏の強烈な太陽光線の直撃は避けているとはいえ、摂氏三十度は超えているだろう。ティーシャツの上に重ね着したトレーナーも、分厚い素材でできた登山用のパンツも、重く汗で濡れていた。最新の人間工学に基づいて設計されたザックも、肩や腰に容赦のない負担を強いている。

 私は、獣道が巨大な岩を迂回しているところで、岩に這い上がり、ザックを下ろした。タバコに火をつけ、水筒の水を少量口に含む。

 乾いた岩肌に、茶色の蝉の抜け殻がいくつもへばり付いている。おそらく、クマゼミのものであろう大きな抜け殻を、海賊巻きにしたバンダナに止まらせた。

 短くなったタバコを岩に擦りつけ、吸殻をポケットに入れた。再び、ザックを背負って獣道を登り始める。

 突然視界が開ける、といった感じで登りつづけた獣道は、小さな沼にぶつかって途切れた。水は空の色を吸い込んで、濃い青から岸へ向かうにしたがって薄くグラデーションがかっている。

 私の右手百五十メートルほどのところに、幅二メートルほどの流れ込みがあり、左手にはやはり同じぐらいの幅の流れ出しがある。

 湖岸のほとんどは倒木や岩に囲まれているが、流れ込みの両脇がわずかに砂浜となっており、私はそこを夜営の場所とすることにした。

 ザックを下ろすと、素早く荷を解く。一人用のチューブ・テントを組立て、夏用のスリーピング・バッグを広げて、午後の日差しに当てた。

 周辺から拳大の石を拾い、釜戸を作る。中の砂を少し掘って窪みをつけた。腰に吊った手斧を手に、薪となる枯れ木や枯れ枝を大量に集めた。チューブ・テントの脇に積み上げる。

 ザックの中から携帯用のフライ・ロッドを引っ張り出し、組み立てる。流れ込みの脇から倒木の陰に向かってキャストした。

 一投目から、三十センチほどの虹鱒がヒットした。約三十分ほどの間に十二尾の虹鱒や山女がヒットしたが、大きな方から三尾を残してすべて沼に放した。

 折りたたむと、掌の中に収まってしまうようなフォールディング・ナイフで虹鱒の腹を裂き、内臓を流れに捨てた。腹の中に塩と黒胡椒を擦り込み、木の枝を細く削った串に刺した。下を向いて作業していると、顎の先から汗が滴る。

 釜戸に枯葉、枯れ枝、枯れ木という順に組み上げ、下からマッチの火を差し込んだ。チョロチョロと枯葉に燃え移った炎は、すぐに枯れ枝に燃え移り、やがて太い枯れ木にも燃え移った。私はさらに太い枯れ木を火にくべ、ちょっとしたキャンプファイアぐらいの焚き火を作った。

 そこまで作業を終えて、私は汗で乾いたところがなくなった衣服を、すべて脱いだ。火の傍に広げて置くと、キャンバスのバケツを持って沼に入った。腰のあたりまで水に漬かって、バケツに汲んだ水を頭からかぶった。汗と供に都市生活で溜まった垢も流れ落ちていく。

 水から上がり、体を拭う。やっと日が傾き始めた。蝉時雨が、何時の間にか蜩のシャワーに変わっているのに気付いた。

 私は、ザックから新しいティーシャツと、膝上でカットしたジーンズを出して身に着けた。エアキャップに包んだワイルドターキーを持って、火の前に座り込んだ。虹鱒を火にかけてから、ワイルドターキーの封を切った。

 ブリキのカップに注いだターキーは、グラスに注いだものよりも暗く、重い色をしている。私はダブル分ぐらいを一息に飲んだ。咽を焼きながら流れ落ち、胃の中で再び燃える感覚は、どこで飲もうと変わることはない。

 焼きあがった虹鱒と三杯のターキーを胃に収めたころには、周囲を闇が支配していた。

 私は太い枯れ木を二本足し、炎を大きくした。時折カップとタバコを口に運びながら、私はじっと炎を見つめた。炎は、私の心の中の様々な物を映し出す。

 

 物心ついたころから、自分が自分であることを押し通してきた。

 その過程でぶつかる物は、すべて弾き飛ばしてきた。

 しかし、社会生活を送るということは、集団の中の個として組み込まれることを意味する。そんな中で私自身は、少しづつ腐敗し、死んでいった。歳を重ねれば重ねるほど、それは加速していく。

 他人の功績を、自分の功績としてまでも、のし上がろうとする者達。

 自分の失敗や責任を、他人に擦り付けてまで、自らに降りかかるトラブルを回避しようとする者達。

 自分に関わること以外はすべてにおいて無関心で、自分のすぐ横で倒れる者があろうとも、平然と通りすぎることができるような者達。

 私は、火花を散らして衝突を繰り返す。その度に少しづつだが、確実に私の一部は、削り落とされていく。周囲は敵だらけになり、孤立無援の状態になっていく。それでも私は、私自身であろうとする闘いを止めようとはしなかった。

 しかし、いつしか傷つき、疲れ果てている自分に気付く。

 そして妥協。妥協は諦めであり、放棄だ。それまで維持していた前線を棄てて、次の防衛線まで後退する。今まで守り続けてきたところへどっと敵がなだれ込み、蹂躙の限りを尽くされる。押しまくられて、再び後退。

 妥協は妥協を呼び、気付くと水際まで追い詰められている。自分自身であり続けようとする自分と、妥協し続ける自分の狭間で、私は身動きができない状態になった。

 最近、あいつは丸くなった。本当は話が分かるやつだ。今まで、決して交わることのなかった人間共が、掌を返したように擦り寄ってくる。焦りに発狂しそうになる。

 そして、私は都市(まち)から逃げ出した。敵前逃亡だ。一人になりたかった。

 

 肌寒さに目が醒めた。反射的に腕時計を見ると、午前四時だ。

 焚き火は僅かな熾火を残して消えかけ、傍らには空になったターキーのボトルが転がっている。どうやら、酔って眠り込んでしまったらしい。

 ザックからトレーナーを出して、着込んだ。熾火に薪をくべ、火を起こした。ポットに流れ込みの水を汲み、火にかける。少量の水だから、すぐに沸騰した。

 昨夜のブリキのカップに、インスタントコーヒーの粉末を入れ、お湯を注いだ。火に当たりながら熱いコーヒーを飲むと、肌寒さはすぐに去った。重い酔いを含んだ眠気も遠くなる。

 尿意を覚えて、私は砂浜と林の境まで歩いた。排尿を終えてふと目を上げると、数メートルほど先の木の枝先に、生まれたばかりの蝉を見つけた。

 正確には、数年前に卵から孵化している。しかし、長い地中での生活に耐え、残りの短い生命を昇華すべく、地上で生まれ変わるのだ。それは、まさしく新たな誕生である。

 蝉は、茶色の抜け殻にまだ乾いていない、真っ白な体でしがみついている。体が乾き、飛び立つ力が全身に漲るのをじっと、静かに待っているのだ。

 私は、真っ白な蝉の姿から目を逸らすことができなかった。

 私は、蝉の姿に自分自身を重ね合わせていた。私自身も、蝉のように生まれ変われそうな期待感でいっぱいになっていたのだ。そう思わせるほど、蝉の姿は生命の誕生の神秘と新鮮さに溢れていた。

 どれくらいの時間、見つめていただろうか。周囲がすっかり明るくなっていたことにも気付かなかった。油蝉であると、はっきり特定できるほど蝉の体も色づいてきた。さすがに、私も立っていることに疲れを覚えてきた。新たな気持ちを胸に、踵を返そうとした、その時だった。

 一羽の山雀(ヤマガラ)が蝉に襲いかかった。山雀は、爪で蝉を抑えつけると羽を毟り、嘴を腹に突き刺した。

 私は、自分の目が一杯に見開かれていくのを自覚した。血走った目をしていただろう。頭が割れるように痛んだ。体が異常なほど熱くなった。咽の奥から、勝手に叫び声が出てきた。

 叫びながら、私は沼に突っ走った。頭から水に飛び込むと、息の続く限り泳いだ。

 岸に上がると、体の火照りは消えていた。心も冷え冷えとしていた。フォールディング・ナイフを剃刀のようにタッチアップすると、私は頭髪をすべて剃り落とした。

 私は、生まれ変わった。

 私は、私自身であり続ける。

 私は、私自身のルールのみに従って生きる。

 他人の犠牲によって成り立つ「力」の上に君臨し、肥え太っていく者達へ。

 「力」の恩恵を受けようと、蟻のように群がる者達へ。

 私を利用し、踏みにじった者達へ。

 私は、復讐する。

 私は、私の求める快楽を味わい尽くす。

 復讐が成し遂げられ、快楽を味わい尽くす、その時が来たならば、人生というメリーゴーラウンドから降りて、生まれてきた虚無の世界へ帰るのだ。


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