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レクイエム


3.

   

 俺の家は元々倉庫だった建物だから、中は必要以上にだだっ広い。

 一階のガレージには、世界ラリー選手権グループN仕様のフォード・エスコート・コスワースが蹲っているほか、バンドワゴンを含めて三台の自転車が置かれている。これらの予備パーツや工具のほかに、二本のサンドバッグとバーベルなどの筋力トレーニングの道具が、かなりの余裕を持って配置できるスペースがある。

 ガレージの奥に階段があり、二階のスペースが俺の棲家だ。バス・ルーム以外には区切りのない、やはりだだっ広い部屋には、ダブルベッド、ソファ、ダイニングテーブル、デスク、チェスト、オーディオ・セット、テレビ、本棚などが壁に寄せて置かれているだけだ。俺自身はシンプルだと思っているが、この部屋を訪れた人間は例外なく寒々とした印象を受けるようだ。

 家具の類は殆どが一八〇〇年代後半から一九〇〇年代前半のイギリスのアンティーク、壁にはバリ島のイカットを張り、床にはイラン産のキリムが敷かれるこの部屋を俺はかなり気に入っている。確かに、俺一人が暮らすには広過ぎるし、分不相応な家具や乗り物たちに囲まれてはいるが……。

 俺は買ってきた食料品を冷蔵庫に放り込んで、着ていたものをずべて脱いだ。スパッツとティーシャツの上にビニール製のサウナ・スーツを着けた。さらにキックボクシング用のトランクスを履いて、ガレージに下りた。

 十五分ほどかけて入念に体中をストレッチでほぐした。三分、一分にそれぞれベルを鳴らす『三分計』のスイッチをいれて、壁にかかっていたタイ製のヘビーロープを取ると、右足二回、左足二回を交互に繰り返してのロープスキップを始めた。五ラウンド分、約十五分も跳んでいると体中から汗が吹き出てきた。さらに五ラウンド分跳んで、充分に体を暖めた。

 次にパンチからキックのコンビネーションを中心に、ヒジ、ヒザを織り交ぜたシャドーを五ラウンド。続いてパンチング・グローブを付けてロング・バッグにコンビネーションをゆっくりと叩き込む。ウォーミングアップのバッグを三ラウンドで切り上げると、スピードを重視したラッシュを五ラウンド行った。ここまでくると息は上がり、体温は三十八度以上になっている。酸欠と脱水で意識が朦朧としてくる。足下のコンクリートには、汗で小さな水溜りができている。

 次の五ラウンドはパワー重視でコンビネーションを叩き込む。さらにローキックを四ラウンド、ミドルキックを四ラウンド、ヒザをニラウンド全力で叩き込んでバッグを終えた。最後に懸垂、腕立て伏せ、腹筋をそれぞれ百五十回でトレーニングを締めくくった。

 床に倒れ込んで、荒くなった息を静めた。サウナ・スーツを通して伝わってくるコンクリートの冷たさが心地よい。

 俺は一度ガレージから外へ出ると、洗車用のホースから直接水を飲んだ。その場でサウナ・スーツとティーシャツを脱いで、ティーシャツをよく絞った。

 サンドバッグの下など、汗が飛び散ったところに水をかけた。これをしないと、梅雨が明けたこの時期、ガレージの中は酷く臭う。まぁ、サンドバッグに染みた汗の臭いは仕方がないが……。

 汚物と化したティーシャツやサウナ・スーツを抱えて、俺は二階に上がった。冷蔵庫の前に脱ぎ捨ててあった物とまとめて洗濯機に叩き込み、スイッチを入れた。

 バスルームに移ってシャワーを浴びる。頭から足の先まで泡だらけにして、よく汗を流した。体重計に乗ってみると、一昨日までの仕事で体重が落ちていたこともあるが、六十六キログラムを少し割っていた。通常体重が七十五キログラムぐらいだから、大分減っていることになる。

 ワイヤー・ラックに乱雑に積まれた衣服の中から、ステューシーの龍が描かれたティーシャツとアディダスのサッカー用のショートパンツを掘り出して、素肌に直接身に着けた。冷蔵庫からエヴィアンの大瓶を出して、直接飲んだ。

 エヴィアンはダイニングテーブルに出したままにして、食事の用意に取り掛かった。先ずイタリア産のトマトのホール缶を二つ開け、トマトを握りつぶしながら鍋に入れた。にんにくを三カケみじん切りにし、屋上からバジルの葉を五、六枚取ってきた。

 屋上にはバジルのほか、ローズマリーやミントなどのハーブやなす、トマトを自分で栽培している。

 にんにくとバジルも鍋に入れ、上からオリーブ・オイルを注ぐ。蓋をして鍋を火にかけた。自分をグルメと称する輩がなんだかんだと偉そうなレシピを紹介しているが、イタリアンのトマトソースはこの作り方が一番美味い。これで沸騰したら弱火にし、二十分から三十分煮込めばできあがりだ。

 煮込む時間を利用して、ズッキーニ、なす、玉ねぎ、ピーマンを切った。これらをオリーブ・オイルで炒めた上にトマトソースをかけて煮込めば、『カポナータ』ができる。

 こいつは明日以降、野菜カレーにする目算があったから、鷹の爪を五、六本黒くなるまで炒めてから野菜を加えて炒めた。

 俺はスティックにした人参と胡瓜、暖めたオイルサーディンを肴にエヴァン・ウィリアムスのバーボンをストレートで飲み始めた。チェイサーはエヴィアンだ。

    

4.

   

 俺はタイのバンコクに生まれた。

 親父は某国立大学を出た後、ぶらぶらしているところを荒川の父、先代の会長に拾われて組織に入った。そこで経済的な知識や英語の実力を買われて、現在荒川がやっているような仕事をタイで始めることを命じられたのだ。

 宝石や雑貨を輸出するために現地で開いた、いわゆる表向きの商売の事務所で、秘書として雇い入れたタイ人女性と結婚した。それがお袋だ。

 色が浅黒く、彫りが深い顔立ちのために、どこへ行っても国籍不明な印象を人に与えるのは、俺がこうした背景を持って生まれてきたことに起因する。さらには、両親が俺を日本人学校にやらずに、インターナショナル・スクールに通わせたため、日本語、タイ語、英語のほかイタリア語やスペイン語、アラビア語も流暢にこなすことも、益々国籍を分からなくするらしい。

 俺は学校に通うようになる前から、タイの国技であるムエタイに熱中した。学校に通うようになっても、早朝と夕方に行われる練習を欠かしたことはなかった。

 やがてプロとしてリングに上がるようになり、ムエタイの二大スタジアムの一つ、ルンピニー・スタジアムのフェザー級でランキング入りするまでになったが、タイトルマッチを目前に控えた十八歳で引退した。

 両親が死んだからだ。おそらく、裏の商売のトラブルが原因なのだろう。事務所ごと両親を時限爆弾で吹き飛ばした犯人は、今もって判明していない。

 両親の死後、俺は合衆国へ渡った。東部の小さなカレッジにスカラシップ付きでもぐり込むことができたし、何よりタイに留まることに恐怖を覚えていたからだ。

 しかし、カレッジでの生活は平穏過ぎて俺には馴染めなかった。勉強の方も「やらなければならないこと」の量が多い割には、ためになることは少なかった。

 二年でドロップアウトした俺は、遺産を食い潰しながらヨーロッパを放浪した。三ヶ月目にベイルートに入った頃には、放浪生活にも飽きがきていた。

 そして、通りすがりにふらりと飲み屋へ立ち寄るように、当時キリスト教徒とイスラム教徒を敵に回して孤立無援の戦いを繰り広げていた自由レバノン軍に志願入隊したのだった。

 世界の傭兵の間で最も死亡率が高いと言われたレバノンで三年間生き抜いた俺は、その時できたコネクションを頼りにアフリカ、中東、中南米の紛争地帯を転々とした。

 そんな生活を十年も続けてきた。そろそろ戦場を離れてのんびりしようかと考えて、三年前に親父の故郷である日本へ来たのだが、俺の望みとは関係なく、裏の世界では俺のことをなかなか忘れてはくれない。今もずるずると昔のしがらみで年に数回のミッションを引き受けるはめになっている。

   

 野菜が柔らかく煮え上がると、一食分を器に取り分け、カレー・パウダーを鍋にぶち込んだ。粉っぽくなくなるまで弱火で煮込み、コンロの火を消した。

 食いかけのままラップにくるんで放り込んであったスパムのランチョンミートを冷蔵庫から取り出して、いんげん豆と供にさっとフライパンで炙った。

 簡単だが美味い食事を手早く済ませ、食器も洗うと、再び俺はエヴァン・ウィリアムスを飲み始めた。クールに火を付けて、立ち上る煙をぼんやりと眺める。

 こういった一人で静かに過ごす時間を、俺は非常に貴重だと感じている。エキサイティングでスリリングだが、神経をすり減らすような生活を長年送ってきたためか、精神的に求めるものはひたすら「静」の時間だ。

 しかし、身中には俺をアクションに駆り立てる獣が棲んでいる。俺はこいつがむずがるたびに、犬を散歩に連れ出すように、サンド・バッグを叩く。蹴る。そんなことでは、決してこいつが満足しないことは分かっているのだが………。

 東京に来たばかりの頃は、精神と肉体の乖離に戸惑ったものだが、今ではそのジレンマを他人事のように面白がっている。

 結局、俺は望むと望まざるとに関わらず、アクションの中でしか生きてはいけないだろうし、アクションの中で死んでいくのだろう。人間が狩猟を生活の糧としなくなって以来、眠らせてきた「殺しの本能」を目覚めさせてしまった者が辿り着く先は見えている。

 電話の音で我に返った。かなりの時間、ぼんやりとしていたらしい。ロックグラスの氷が溶けて小さくなっている。クールは灰皿の中で、フィルターのところまで燃え尽きていた。

 受話器を取り上げると、はいとだけ答えて黙った。

「俺だよ。もう寝てたか」

 荒川だった。

「いや。一杯やっていたところだ」

「そうか……」

「……」

「……どうしてるのかと思ってな。なんとなく電話をかけちまった」

 声に疲れが滲んでいる。

「まだ、仕事してるのか」

「ああ。ちょいとトラブルがあってな。その尻拭いできりきり舞いだ」

 直感的に、そのトラブルが夕方の仕事の依頼に繋がっているのが分かった。俺は黙った。

「……バカンスはどうするんだ」

 察した荒川が話題を変えてきた。

「南の島にでも行こうと思ってる。バハマか、バリか……」

「ふん、それ以上日に焼けてどうするんだ。バリへ行くなら、いいところを紹介するぜ」

「そうだな。いい家具屋でも紹介してもらうか」

「おいおい、珍しいことを言うじゃないか。おまえがヨーロッパ以外の家具を欲しがるなんてな。欲しい物があるんなら、俺のところからいくらでも持って行けよ」

「部屋のアクセントが欲しくなった。まあ、いつも世話になるわけにもいかないしな。たまには自分で買ってみるのもいいかと思ったんだ」

「まあ、いい。こっちの方が落ち着いたら飯でも食いに行こう」

「分かった」

「じゃあ……」

 言って荒川は電話を切ろうとした。

「荒川さん」

「なんだ」

「本当は、何か用があったんじゃないのか」

「いや……。夜中に電話して悪かったな」

「いいさ。まだ寝る時間じゃない」

 おやすみと言って、電話は切れた。

 すっかり氷が溶けてしまったグラスの中身を流しに捨て、俺は新たにグラスに氷を入れ、エヴァン・ウィリアムスを注いだ。クールに火を付けて、ゆっくりとヘビーな味わいのバーボンを飲んだ。

 最後の一杯を飲み干すと、部屋の明かりを落してベッドへ入った。掛け布団を引っ張り上げる間もなく、俺は眠りに落ちた。

 いついかなる状況の中でも、瞬時に眠りに落ち、瞬時に目覚めることができるのは、俺が長い傭兵生活の中で身に付けた特技の一つだ。


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