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レクイエム


プロローグ

      

 あと一時間あまりで夜が明ける。ストッカー・アンド・エールの発光トリチウムを封入した針は、午前三時三十三分を指していた。

 防寒用のミトンの中で指を動かして、冷えて固まった指に血液を送り込む。

 胸に抱いたM−2カービンの装填とサイレンサーの装着を確認した。ストックが折りたためてコンパクトになること、セミオートとフルオートの切り替えが可能なこと。こいつはいささか古いが、ベトナム戦争では特殊部隊でも愛用された、隠れた名銃だ。

 夜の冷え込みで、座り続けた足腰は痺れて感覚が無くなっているが、動くことはできない。砂漠に掘ったタコ壷は崩れやすく、危うい均衡を保っている。それに、そろそろターゲットが現れる時間だ。

 ベドウィン出身のテロリストのリーダーの除去。

 敬虔なイスラム教徒である彼は、週に何度か砂漠で祈りを捧げる。街にいるときは護衛に囲まれ、堅牢な建物からほとんど外出しない彼が、最小限の護衛だけで数カ所に設けられた「祈りのポイント」に気まぐれに現れるのだ。

 比較的街からもオアシスからも離れたこのポイントに、タコ壷を掘ってもぐり込んでから五日が過ぎていた。

 アンブッシュ。いわゆる待ち伏せは、集中力と忍耐が要求される過酷な任務だ。様々な気象条件、環境に耐えながらいつ現れるとも知れないターゲットを待ちつづけ、一瞬のチャンスを逃すことなく確実にものにしなければならない。

 テロリスト・グループを除けば、暗殺や破壊工作といった特殊工作を企てる機関は、自国のあるいは身内の人間がこのような任務に就くことを極端に嫌う。

 作戦が失敗し、その内容が露呈した場合、国の内外から非難が集中し、結果として何人かの首が飛ぶ。さらには予算や行動の大幅な制限などが課せられる。しかし、何より彼らが嫌うのは、世界の笑い者になることなのだ。自国防衛に最も貢献しているのは自分たちだ、というプライドは非常に高い。

 作戦が失敗した場合には完全な無関係を装うことができ、救出の必要もない。コントラクト・ベースで後腐れがない。最高水準の技術を持っている……。

 彼らが求めるすべての条件を満たした、非常に都合のよい存在が傭兵だ。地域紛争が減少傾向にある現在、これらの分野での需要は減った反面、その特殊技能への需要は別の分野で高まっている。

 作戦実行のために必要な情報は諜報機関が集め、実行は傭兵が行う。完全な分業制が成り立っているのだ。基礎情報に加えて、追加で収集すべき情報が傭兵側から指示され、すべてが出揃ったところでそれ以降は傭兵に委ねられる。

 諜報機関側は作戦の細かい内容まで知りたがるし、口を出したがる。しかし、イランでのアメリカ大使館人質救出作戦の失敗と同じ轍を踏むような、ドジな真似をする者はいない。情報のリークや裏切りが日常茶飯事な世界だ。作戦の内容を知る者の数は少なければ少ないほどいい。

 白々と明け始めた東の彼方に、細い砂煙が上がった。それはみるみるうちに近くなってくる。ジープの立てる砂塵だ。

 タコ壷から五十メートルほど先に停車したランドローバーから四人の人間が降り立った。純白の民族衣装を纏ったのが一人。あとはコンバット・スーツ姿だ。コンバット・スーツは旧ソ連製のAK四七自動小銃を肩から吊っている。

 胸のポケットから取り出した、カール・ツァイスの小型双眼鏡で素早く民族衣装の人相を確認する。皺深く、アラブ人としては珍しい髭のない顔は、出発前に何度も確認したリーダーのものだ。

 ミトンを外した。タコ壷の中で静かに膝立ちの姿勢になる。冷え固まった筋肉がばりばりと音を立てる。左肩にストックを当て、ピープ・サイトを覗き込む。音を立てないように、ゆっくりと安全装置を解除し、民族衣装が祈りを捧げるのを待った。セレクター・レバーはセミオートの位置だ。

 民族衣装が地にひれ伏した。コンバット・スーツたちは車の傍で所在なげに立っている。民族衣装が顔を上げたところへ、三発頭に撃ち込んだ。発射の衝撃でタコ壷が崩れ、腰のあたりまで砂に埋まった。

 突然の出来事に呆然とするコンバット・スーツたちにも一発ずつ頭に撃ち込む。十二連のバナナ弾奏だが、無駄な弾丸は必要ない。

 三十秒ほど様子を窺った後、キャンバスを跳ね除けて砂の中から立ち上がった。約五十メートル歩くうちに硬直していた筋肉に血が通い、いつでも撃ち返せる反射神経が戻った。すべての死体を蹴って上を向かせ、完全に死体になっていること、民族衣装は間違いなくリーダー本人であることを確認した。

 死人には必要ないから、ランドローバーを有効活用することにした。一度タコ壷まで運転して行き、中の荷物を掘り出して後部シートに放り込んだ。

 あとは国境付近の海岸まで走るだけだ。海岸には侵入のときに使ったゴムボートが隠してある。

 ハイジャック、大使館爆破など数々のテロ行為を行ってきたテロリスト・グループのリーダーが暗殺された、というニュースの第一報が流れたのは、作戦終了から八時間後のことであった。その頃には、既に隣国からアテネ経由ロンドン行きの機上で、毛布を被って眠りに就いていた。

  

1.

  

 遠くで鳴っている電話の呼び出し音に気付いたのは、おそらく十回以上鳴ってからだったろう。

 しばらくベッドに横たわったままやり過ごそうとしていたが、相手に切る気がないことがわかって、俺は相当な努力をして体を起こした。何せ、昨夜はかなりの量の酒を、しかも三週間ぶりに飲んでいた。完全に二日酔いだ。

 夕べ帰ったときに留守番電話のメッセージを聞いたままで、セットし直すのを忘れていたのだ。自分の迂闊さを罵りながら、腹筋だけを使ってそろそろと体を起こしてみる。

 上体が地面と垂直になったときに、世の中がグルグル回っている錯覚に陥った。二日酔いどころではない。まだ体の状態は夕べ帰ったままだ。

 その体勢から右手をついて、ダブルベッドの対岸のサイドボードに置いてある電話に体を捻りながら左手を伸ばす、という甚だ無理な姿勢で電話を取ろうとした。受話器に左手の中指がかかった瞬間、それまでやかましく鳴り続けていた電話がピタリと止んだ。

 本気で電話を叩き壊そうかと思った。しかし、機器に当り散らしても到底晴れることのないこのやり場のない怒りを、俺はバッタリとベッドに倒れ込むことで何とか抑えようとした。

 仰向けになると、後頭部から地の底へ引き込まれるような感覚が襲ってくる。かと思うと、臍を中心に右や左へ体が回転するような錯覚が断続的に訪れる。俺は酷い嘔吐感と闘っていた。いくら体を鍛えても、内臓だけはある一定量以上のアルコールを受けつけてはくれない。

 すべての気力を奪うような不快な酔いと闘っていると、再び電話が鳴り出した。さきほどと同じ体勢で、今度は二十回目で受話器を取り上げることが出来た。

「仕事の依頼です。三時間後に事務所へお越しください」

 こちらが声を送る前にだというのに、完全に事務的で、まったく感情のない、女の声が聞こえてきた。

「……」

 何も答えずに乱暴に電話を切った。それから留守番電話をセットし、さらに呼び出し音を最小にしてベッドに再び倒れこんだ。電話の相手が誰かは分かっている。いくらでも待たせておけばいい。

 三度鳴り始めた電話が、五回目で留守番電話に切り替わるのを聞きながら、地の底に引きずり込まれるように意識が薄れていった。

  

2.

  

 明治通りを右折して表参道に入った。少し行ったところでさらに右折する。住宅、美容院、洒落たショップが散在する中にそのオフィスはあった。

 打ちっぱなしにしたコンクリートの壁面にはびっしりと蔦が絡み付き、建物の前には三台の車が楽に駐車できるスペースを持っている。ドアの脇には、蔦に隠れるようにして『荒川欧州貿易』と刻印された小さな銅板がはめ込まれている。

 俺は駐車スペースの端に、スラローム仕様にしたスプーキー・バンドワゴンのマウンテンバイクを止めた。フロント・サスペンションにマルゾッキ・ボンバーZ1、フォーミュラのディスク・ブレーキ、シマノXTRのリア・メカ、プロファイル・レーシングのBMX用クランクとチェーンリング、ACのチェーン・デヴァイス、アゾニックのステムとハンドル、マヴィックDEE MAXのホイール、ノキアン・ギャザロッディのダウンヒル・タイヤと完全な戦闘マシンに仕上げてあるこのバイクは、街中でもその旋回性能と加速性能を発揮して、時間帯と場所によってはモータリゼーションを凌ぐスピードで移動が可能だ。

 俺はフォックスのグローブをグラミッチのショートパンツの尻ポケットに突っ込み、パタゴニアのメッセンジャー・バッグのサイドポケットからエヴィアンのミネラル・ウォーターを引っ張り出した。エヴィアンを飲みながら、荒川欧州貿易の金の掛かっていそうなドアを引き開けた。

 質素でよく整理されたオフィスの入口近くの席から、笑顔で振り返った女の顔がみるみるうちに強張った。社長の荒川武士の秘書、賀川千賀子だ。年齢は三十七歳になるはずだが、見事にシェイプされた体と定期的に通うエステのおかげで、二十代後半とも三十代前半ともとれる若さと美しさを保っている。

 千賀子は、フェンディのスーツに包まれた見事な体ごと振り向くと、つかつかと俺に詰め寄ってきた。

「西城君、今何時だと思ってるの。私は三時間後と言ったはずよ。それに、その格好……」

 電話を叩き切ってから、六時間は眠った。今日の俺の格好は、バイクでの移動に適したグラミッチのショートパンツにフォックスのレーシングジャージ、ヴァンズのハーフキャブだ。スパイ・マイクロスクープのサングラス、左の耳には五つのシルバーの輪、クルーカットの頭と、三十五歳の男の格好とは確かに言い難い。

「俺の格好はともかく、電話ってのは理不尽極まりない道具だよな、賀川さんよ。相手の都合にはまったくのお構いなしだ。俺は電話をかけるときにいつも迷うよ。今かけても大丈夫かってな。そんなこと考えてたら、電話なんてかけられなくなる。だから、俺は電話が嫌いなんだ」

「あ、あなたの都合なんて考えていられないわっ。私は私の仕事をしてるだけよ。それに……」

「いいさ。俺は、あんたのようなサラリーマンじゃない。あんたの仕事は、普通の会社人間相手にやってくれ。俺に当てはまるとは思わんでくれよ」

 千賀子の顔が紅潮してくるのがわかった。俺は彼女の左の胸の頂に左肩を擦りながらすり抜けて、『President』のプレートがはめ込まれた奥のドアへ向かって歩いていった。

 ドアの前で振り返ると、千賀子が顔を紅潮させたまま腰に手を当てて、まだこちらを睨んでいた。ニヤリと笑ってウインクを一つ送ると、ノックもせずにドアを押し開けた。

 部屋は、大きく取られた窓からの光で明るかった。窓の前に置かれた巨大なマホガニーのデスクに向かって、荒川はパソコンを操作していた。

「ちょっと待っててくれよ。今これだけ片付けちまうから」

 画面から顔も上げずに荒川が言った。俺は革張りのソファに座って高々と足を組み、クールに火を付けた。

 荒川は五十五歳。ジム通いが趣味で、よく日焼けした逞しい男だ。健康で聡明な、アメリカン・スタイルの有能なビジネスマン然とした雰囲気を持っている。ヨーロッパやアジアのアンティーク家具や雑貨の輸入販売を手掛けるこの会社を始めて二十年。会社は順調に伸びてきている。

 しかし、この会社の社長が関東一円を傘下に収める、広域指定暴力団の会長の弟であることを知っている人間は少ない。

 荒川は独力で起業し、自らの才覚と行動力で会社を大きくしてきたが、正規の貿易業のほかに、麻薬や銃器の密輸入やダーティ・マネーのロンダリングを組織から一手に任され、それを巧妙にこなしている。ここが、一般的には企業舎弟と呼ばれる金融、不動産、証券などの業界でアンダーグラウンドな活動をしている会社とは一線を画しているところだ。

 また、彼が前会長の愛人との間にできた子供であり、会長とは戸籍上の繋がりがないことも、事業の成功と当局の目から逃れるための重要なファクターとなっている。

 荒川は、俺がクールを一本喫い終わったころやっと顔を上げた。唇に薄い笑いを張り付けてソファの方へやってきた。俺の向かいにどっかりと腰を下ろすと、接客用のタバコケースから一本抜き取って銀張りのデュポンの火を移した。

 ラルフ・ローレンのボタンダウン・シャツの一番上のボタンははずれ、ゴードン連隊のレジメンタル・タイが緩んでいる。しばらく俺の目を見ながら煙を吐き出していたが、クリスタルの灰皿に煙草を捨てて、徐に口を開いた。

「調子はどうだい、兄弟。随分と頬がこけてるじゃないか」

「昨日、一仕事終わったところだ。今日からはバカンスの予定なんだがね」

「そうか。それは済まなかったな。呼び出したりして」

「ついさっきまで、そのことで賀川女史とやりあってたよ。一事が万事ビジネス優先の彼女にとっては、俺の都合など関係ないらしい」

「ふん。相変わらずだな。おまえたちは」

 と言って、荒川は大きく笑った。

 きちんと三度のノックと供に千賀子がコーヒーの盆を持って入ってきた。カップをテーブルに置く際に一瞬俺を睨んだが、さきほどまでのことは億尾にも出さず出て行った。

「悪いが仕事の依頼は受けないぜ。俺がすぐには次の仕事を取らないのは知ってるだろ」

「ああ。だがな、今回ばかりはそれを曲げてでもやってもらいたい。かなり厄介なんだ。いろいろシミュレートしてみたが、こいつを片付けられるのはお前しかいない、という結論に達した」

「光栄だがね、俺が自分のルールに忠実なのは知ってるはずだろ」

「それも分かっている。だがな……」

「この世界では、自分のルールを破った人間は長生きできないってジンクスがある。俺もそういう人間を何人も見てきてる。まぁ、無くして惜しい命じゃないが、もう少しこの世にいたいって気もするんでね。悪いがほかを当ってくれ」

 と言って、俺は立ち上がろうとした。

「待ってくれ。ならば、話しだけでも聞いてくれ」

「おいおい、荒川さん。話を聞くってことがコミットするってことになるのは百も承知だろ。あんた、今日はおかしいぜ」

「すまん。確かにどうかしてるな。ここんところ、仕事がハードでな。満足に寝てないんだ」

「そんなこったろうと思ったよ。久しぶりなんで、飯でも一緒に食おうと思って来たんだが、今日は帰るよ。邪魔したな」

「ああ。また連絡する」

 俺は右手を挙げて立ち上がった。そして、振り返ることなく部屋を出た。

 千賀子は出てきた俺をちらりと見上げたが、すぐに視線をデスクの上に戻して、インヴォイスの処理に専念している。千賀子にも右手を挙げて挨拶した俺は、そのままオフィスを出てバイクに跨った。

 夕方のラッシュ時間にかかった明治通りは、歩道も車道も混雑し始めてきた。俺は車道へ飛び出した。ハンドル幅いっぱいのところにもがんがん突っ込み、殆どの信号を無視し、時には反対車線も使ってかなりのスピードで恵比寿から駒沢通りに入った。

 途中のスーパーマーケットで食料品を買い込み、駒沢公園近くの我が家へ戻ったのは午後七時を少し過ぎた頃だった。


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