パーフェクト・ワールド
「お金で手に入れられない物なんて、ないわ。そのためには高い学歴を持って、安定して高給を払ってくれる一流会社で働くのが一番よ。でないと、いつまでも人に顎でコキ使われることになるわ」
ヴォーグ誌から抜け出してきたかのようなユダヤ娘、ジャッキー・ザカリアスは、形の良い唇を歪めた。
流れるようなジェット・ブラックの髪は背中まで達し、深いブルーの瞳は非常に魅力的だ。エルメスのスーツ、フェレの靴、微かに漂う香りはエタニティ、化粧品はシャネルと、頭の先からつま先まで、まったく隙のない完璧さだ。
「いい給料をもらって、いい服を着て、いい部屋に住み、いい家具に囲まれて……。もちろん車も最高のものに乗る。こんなに完璧なことないじゃない。そう思わなくって?」
ギムレットを啜りながらそんなことを言われれば、そうなんだろうと思えてくる。
「ふん。人の隙間を歩いてりゃいいのさ。人が嫌がることや、思いもつかねえようなことをやってりゃ、食っていくことなんて簡単にできるもんさ。それどころか、大きく儲けて一財産作ることだって難しくないね」
ジャック・スペンサーは、吐き出すように言った。
薄汚れて、元の色が判然としないタンクトップ。これまた薄汚れた迷彩柄のパンツ。金髪を無数の三つ編みにして、無造作にバンダナで束ねているが、その金髪も薄汚れて、何日も洗っていないようだ。そのくせ、彼の体からは不思議と悪臭は漂ってこない。
ジャックは、黄色いラベルのジム・ビームを掴むと、口の端から零しながら、ぐいっと飲った。太く筋張った腕で口の周りを拭うと、冷たく鋭い目を我々に向けてニヤリと笑った。
「そうじゃねえか? 坊やたち」
我々と同じ歳だとは思えないほど、彼の態度は尊大だった。
「何よ、その薄汚いカッコ。あたしは、そんな薄汚れるような、地べたを這いずり回るようなことはしたくないわ。あたしは、あなたと違って頭脳労働者なの。機械工学も学んだ技術者でもあるわ」
ジャッキーの目の光が、険悪なものになってきた。
そんなこと、意に介する様子もなくジャックはジム・ビームを呷って言った。
「頭脳労働ね。俺だって頭は使ってるぜ。しかも、お前さんよりは遥かに効率的に使っている。俺は、お前さんたちインテリと違って、理論と法則だけで物事は判断しねえ。常に現場の生の情報と俺自身の経験から判断するんだ。
わからねえだろ。例えば、景気が突然悪くなる。お前さんたちは、悪くなってからなぜそうなったかの分析をする。それで次に備えると言うが、次を予測できた試しはねえんだ。俺は銀行屋や株屋の物品購入の状況を常にチェックしてる。金回りの大元のこいつらが物を買い控えれば、一年の内に景気は下を向く。
やつらは他人のことなんか知らん顔さ。自分のとこだけ良ければそれでいいと思ってるのさ。だから、景気が下向く傾向が見えたとしても誰にも教えない。俺は違うぜ。もちろん金は取るが、惜しみなく情報は仲間内に伝える。
本当に学ばなきゃならねえことも、本当に必要な情報も、お嬢さん、お前さんが言った、地べたを這いずり回らなきゃ得られねえのさ」
ジャッキーの目はさらに険悪な光を増した。ジャックのジム・ビームを取ると、自分のカクテル・グラスに並々と注いだ。一息に飲み干した。目が据わっている。
「理論も法則も絶対だわ。予測できても絶対性を求められる世界では、おいそれと発表できないの。会社が大金を投じるのよ。外れましたじゃ済まされないの。そこにもってきてねえ、あんたたちみたいな輩がゴソゴソ動き回るから世の中が余計混乱するのよ」
細い指に挟んだ、細いタバコを彼に突き付けながら、彼女は幾分上ずった声で言った。そしてまた、ジム・ビームを呷った。
「おいおい、話しが感情的になってきたじゃねえか。お前さんたちのような自信家ってのは、みんな一緒だな。自分の知らないこと、都合の悪いことには見向きもしやがらねえか、ヒステリーを起こすかだ。
所詮、世の中すべてギャンブルなんだよ。絶対なんてことはありえねえ。だからみんな右へ行くか左へ行くか迷うんだ。時には、分かれ道が三本も四本も出てきて、途方に暮れちまうときもある。そんなとき物を言うのが賭ける本人の意思と、情報だ。先の見えねえ道を行くのは、誰だって恐い。多少なりとも先を見通せる情報を仕入れるのは当たり前ってわけだ。
情報だけあったって、賭ける本人が最終的には決断を下さなきゃならねえ。九分九厘勝てる勝負に、肝が据わってねえばかりに賭けそこなったり、自棄を起こして勝てる見込みのねえ勝負に大金を張ってみたりする。
会社の経営だってそうだ。大きく当てるも大きく外すも、すべては情報の質と量の問題だ。誰だって損はしたくねえ。五分五分の確立を出来るだけ有利な確立にしなきゃならねえ。そのためには地べたを這いずり回るしかねえのさ。あとはもう、どちらに張るか、降りるかを決めるだけだ。
お前さんたちのように、色々なものに庇護されてる人間にギャンブルを語る資格はないね。そんなものは、人の予想に乗ってチビチビ賭けてるケチなやつらと何ら変わるところはないんだ」
ジャックはイスに背を凭れさせ、我々を見まわした。
ジャッキーは、俯いて、自分の握った拳を見つめていた。微かに肩が震えている。握り込んだ拳は、指先が白くなっている。
ジャッキーの側の人間であるはずなのに、気持ちがどんどんジャックの側に傾いていくのが分かった。彼の言っていることが非常に現実的なのだ。実際、そういった情報を買って、大きな取引を纏め上げたことが思い出される。そのときは、上司の許可も、仲間への相談もせず、独断で話を進めたのだ。
しかし、会社では、出来て当たり前、失敗すれば責任はすべてこちらにかかってくる。当たり前と言えば当たり前なのだ。結果がすべてであって、その過程や方法論は関係ないのだ。失敗したからといって、ナイス・トライだったと肩を叩かれ、慰められることはない。
ジャックがテーブルに乗り出してきた。クールの箱から一本取り出すと、使い込んだジッポで火を点けた。
「お前さんたちがしてきた勉強って、何だい? その結果手に入れたものって、何だい?」
そこで間を置いて、我々を眺めた。面白がっているような色が、その冷たく鋭い目の中に見えた。
「理論と法則。それに基づく技術。確かに立派だよな。その結果が、九時から六時まで、毎日毎日拘束された挙句の僅かな給料か。疲れ切って金を遣う暇もない。そこでセキュリティの効いた部屋に、通販で買った高級品、ヨーロッパの車。年に一度か二度の海外旅行。
部屋にいる時間よりも、会社にいる時間の方が何倍も多いっていうのにな。車なんざガレージで埃を被りっぱなしだ。磨くために車を買ったのか? 疲れ切った体にゃ、ドラッグでもなけりゃ働けもせず、セックスも出来ねえ。暗がりでホールド・アップに出会えば、身包み剥がれて、穴という穴ににぶち込まれて、おっぽり出される。
これがお前さんたちの言う、完璧な世界ってやつかい?」
もう言葉もなかった。普通だ、当たり前だ、完璧だ、と思っていた世界が崩れて行く。ジャックのジム・ビームを、喉を鳴らして飲んだ。
ジャッキーは、さっきから身じろぎ一つしなくなっている。
「俺は、お前さんたちとは違うぜ。学校なんて、中学を出てから行ってない。それでも、俺は教養高い人物さ。生きていくのに、儲けるために、身を守るために必要なことは、すべて学んだ。本と、実際に体験したことからな。
このゴミ溜めのような街の、一番薄汚れた区画に住み、家具なんて物はほとんど部屋にはない。車だって持っちゃいない。そんな物は必要なときに、必要なものを調達すればいいからな。
生まれてこの方、外国はおろか、地下鉄で行ける範囲の中だけしか行ったこともない。それでも、国中で、世界中で起きてるケチなことから重要なことまで、俺は知ることができる。
何より、俺は自由だ。寝たいときに寝る。起きたいときに起きる。働きたいときに働く。遊びたいときに遊ぶ。頭も体も、適度に休ませてやらなきゃ、いざってときに言うことを聞いちゃくれないのさ」
気付くとジャッキーの姿はなかった。彼女のお気に入りの、バカラのカクテル・グラスも見当たらない。何時の間にか席を立って帰ってしまったらしい。それくらい、ジャックの話しに引き込まれていた。
「俺のような人間は、世の中が混乱すればするほど、大きく儲けることができる。のほほんと生きてるやつらばからいだからな。一度パニックになりゃ、どうしていいか分からなくなるのさ。
何年か前に、この街が停電になったときがあったろ? そのときどうなった? 俺の周りに住んでるやつらは、こぞって店を荒らしに行ったよ。西海岸で大地震が起きた時だって、同じようなものだったろ。そういうときやられるのは、お前さんたちのような人間さ。
いいか、俺たちは意識的に混乱を作り出すことだってできる……」
ジャックの話しは、止め処もなく続いた。そのうち、ジム・ビームの酔いも手伝って、意識が朦朧としてくる。白い幕が掛かり、ジャックの声が遠くなる。
窓から入ってくる騒音で目覚めた。人々のざわめき、車のクラクション、その他雑多な音の塊だ。
薄汚れて、家具も何もない、ガランとした部屋。床に直接置かれたマットレスの上だった。部屋の真中に置かれたテーブルと一脚の椅子。テーブルの上には、中身のない、黄色いラベルのジム・ビームのボトルが三本。クールの吸殻が積もった灰皿。
タバコのヤニで染まった壁には、鮮やかなピンクの文字で「ようこそ、完璧な世界へ」と書かれていた。床にはシャネルの口紅が転がっていた。
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