最後のハードボイルド
「……それじゃ、私はあなたの恋人になったって、思ってもいいの?」
「いいよ。もちろんさ」
初めて逢った日の会話は、いまでもよく覚えている。
逢った瞬間から強烈な磁力のような物を感じた。吸い寄せられるように心がひとつになっていく感覚。生まれて初めて味わった。
俺は、容易に人を信じることのできない、欠陥人間だ。初対面の人間とは目を見て話すことなどできない。友達と呼べる人間など、一人もいない。一見、人当たりは柔らかく、社交的に振舞ってはいても、決して他人に心を開くことはなかった。
そのくせ、いや、それだからこそ、他人の目が気になった。外面も内面も鍛え込み、他人から舐められないように気を配ってきた。ストイックに自分のためだけに生きてきた。
そんな俺の固い心のからの中に、リサは何の抵抗もなく、すんなり入り込んできた。そうなることが予め決められていたかのように、俺は彼女を受け入れた。
それからが大変だった。
初めて逢ったときのリサは、自立した大人の女だった。たっぷりと時間と金を使って自分を磨いた、完成された宝石だった。本人もそれを自覚し、容易に人を寄せ付けない凛としたオーラを纏っていた。しかし、それは一人で突っ張って生きてきた人生の裏返しの強よがりであった。
二度目に逢ったときから、リサはまるで子供に戻ったかのように俺に甘えた。そして俺も彼女に甘えるように強要した。最初にその兆しを感じたのは、二度目のデートで、彼女が自分の呼び方を「あたし」から「リサ」に変更したときだった。
また、「リサがマサシを、マーくんと呼んだら、リーサちゃんと応えるのよ」と言って、俺を驚愕させた。
さらには、街中で手を繋ぎ、立ち止まる度にキスを迫ってくる。俺は恐る恐る応じた。どうしても周囲の目が気になるし、恥ずかしさを棄て切れなかった。
孤高のハードボイルドを気取って生きてきた俺のアイデンティティは、ガラガラと音を立てて崩れ始めた。甘々、ラブラブという、俺の人生の辞書には存在しなかったボキャブラリーが強制的に、しかし甘美な響きを持って挿入され始めた。
しかし、慣れとは恐い物である。抱き合えば抱き合うほど馴染んでいく体、話せば話すほど溶け合う心。馴染むほど、溶け合うほど、俺はリサの要求を自ら進んで、喜びを持って実行していることに気付いた。
それでも俺を驚愕の淵に陥れるようなリサの奇妙な言動は続いた。
ある朝のことだった。俺はいつものように朝のシャワーを浴びて、リビングでコーヒーを飲むところだった。そこへリサが起き出してきた。いつもの低気圧状態とは違い、目が輝いていた。直感的に俺は嫌な予感に襲われた。
リサは俺の腰に巻いてあったタオルを取ると、いきなり股間の一物を握り込んで言った。
「いま、突然天の啓示を受けたの。この子、これからポンちゃんって呼ぶ。マーくんも仲良くしてね」
言葉もなかった。静謐なる朝の時間が、突然襲った命名事件で激しくかき乱されたのだ。
「な、何を言い出すんだ? リサちゃん……」
かろうじて発した言葉は、リサには伝わらなかった。
「こんにちは、ポンちゃん。あたしリサ。これからはリサとマーくんとポンちゃんの三人で暮らしていくのよ」
既に可愛らしい声色で、一人遊びを始めたリサである。
「ポンちゃんは、リサといっしょで、朝は弱いんだね。昨日の夜はあんなにすごかったのに、今朝は全然意気地がなくってさ。くっくっく」
俺のプライドを粉々に打ち砕くような発言である。一瞬、がっくりと肩を落しそうになったが、反論しようと顔を上げた。
しかしである。ここで少しでもネガティヴな発言をしようものなら、あっという間にリサの顔色は青ざめ、烈火のごとく怒り出すことは目に見えている。何も言うまい。黙って受け入れるしかないのであった。
リサの日常は、まったくといっていいほど適当だ。頭の天辺からつま先までキメて外出していたかと思うと、洒落たバーへ短パンにゴム草履、タンクトップ姿で現れたりする。シャツの裾がスカートからはみ出ていたり、ジーンズやスカートの背中側からパンティが見えていたりすることは茶飯事だ。
料理の食材や酒に関しては、経済観念ゼロで高級品を使う。食べ残しはすべて棄ててしまうし、三角コーナーでは腐ったりカビが生えたりしている生ゴミがあっても気にしない。高級な食材が冷蔵庫の中で朽ちているのを発見すると、俺は気が遠くなるような絶望感に襲われる。
トイレや風呂場の角にはカビや髪の毛が溜まり、そんなことだから部屋の角や家具の脇には綿埃が配置されたような自然さで吹き溜まっている。
俺は、それらを黙って片付けたし、掃除した。いままでの俺なら絶対にやらなかったことだし、相手を厳しく糾弾したことだろう。
そんなリサの奇行とは裏腹に、俺の彼女への想いは留まるところを知らぬかのように大きく膨らんでいった。寝ても覚めても、リサのことが頭から離れなくなってしまった。仕事中に急に心臓の鼓動が大きく激しくなったり、奇行の数々を思い出してニヤけていたりした。
外面的にも、俺は変化していったようだ。まったく自覚症状はないのだが、周囲からは近づきがたいオーラが消えたとか、丸くなったとか、柔らかくなったなどの指摘を受けた。内面だけでなく、外面的にも俺のハードボイルドは崩れつつあるのだろうか? 不安に怯えながらも、他人には関係ない、という強い力が働いているのを明確に感じていた。
世の中がどうなろうと、俺にはリサしかいないのである。リサしか見えないのだ。
ある晩、食後のバーボンを飲みながら、俺はリサを正面から見据えて告白した。初めて逢ってから、一月半しか経っていなかった。
「俺はいままで、こんなに人を愛したことはない。リサちゃんとのことは、すべてにおいて最短距離を進みたいんだ。一緒になろう」
「……」
リサは俯いたまま何もしゃべろうとしなかった。心なしか肩が震えている。
俺の中で急激に不安が高まり、柄にもなくオロオロした。
「ど、どうしたんだい? リサちゃん」
「……」
リサの膝に涙が落ちているのに気付いた。彼女は泣いていたのだ。
「すまん。バカなことを口走っちまったみたいだね。リサちゃんを泣かせるほど動揺させちまったのか……」
「違うの! リサは嬉しいの。でも、不安なの。リサは何もできないんだよ。家事なんてなんにもできないんだから。我侭だし、人嫌いだし……いままでずっと一人だったから、誰かと暮らすのが不安なの」
俺の心を凍りつかせた不安は氷解し、たまらなく愛しい気持ちで溢れかえった。
「いいさ。俺はリサちゃんのすべてを許すよ。何があってもリサちゃんを守る。これは誓いだ。だから、何も心配することはない。俺と一緒になろう」
俺はリサを力いっぱい抱きしめた。テーブル越しだったから、グラスが倒れた。それを見ながら、リサの耳元に囁いた。
「かっこいいだろ。でも、これが俺の最後のハードボイルドだぜ。明日から俺はフニャフニャの蒟蒻野郎として生きる。見かけはハードボイルドだけどな」
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