エンドレスサマー
午前七時だというのに、真夏の太陽は容赦なく照り付け、じりじりと砂浜を焼き始めていた。気温もすでに三十度に近い。
傍らに短毛種のリトリーバー犬を従えた男が一人、砂浜に下りてきた。八フィートのロング・ボードを左手に抱え、右肩からは大きなクーラーボックスを下げている。赤銅色に日焼けした体はしなやかな筋肉に覆われ、彼が歩く度にくっきりとその輪郭を露にする。
リトリーバー犬は水が好きだ。彼は砂浜に下りたときから、ちらちらと飼い主の顔を窺っていた。男が小さく頷くと、脱兎のごとく駆けていき、気持ちよさそうに海に飛び込んだ。
微笑を浮かべた男は波打ち際から十五メートルほどのところに、サーフボードとクーラーボックスを下ろした。
波と戯れるリトリーバー犬を眺めながら、男は入念に全身のストレッチを行った。
「また来ちまったよ」
独り言。体を動かしながら、男は沖の方を眩しそうに見つめている。
肩や背中に玉のような汗が浮かんできた。男はボードを掴むと、ゆっくりとした足取りで海へ向かった。ボードを浮かべると力強いストロークで沖へ漕ぎ出した。
リトリーバー犬がボードの先端に飛び乗った。嬉しそうに、何度も飼い主を振り返る。
かなり沖まで来て、男はボードの向きを変えた。よい波が来るのをボードに跨って待つ。嬉しさではちきれそうなリトリーバー犬の表情とは対照的に、男は無表情であった。
波が来た。男は素早く腹這いになると、ボードを波のスピードに乗せた。あたかも地上で立ち上がるがごとく、男はボードの上に立ち上がった。下半身でバランスを取りながら、一直線に陸へ駆け戻った。
波打ち際から十メートルといったところで、ボードを鋭くターンさせる。再び沖へ向かって漕ぎ出した。急激なターンにも振り落とされずにいたリトリーバー犬が振り向く。
「やるじゃないか。お前も上手くなったよ」
一人と一匹は、午前中いっぱい沖と陸を往復しつづけた。
この浜で海難事故があったのは、一昨年の夏のことだった。
熱帯低気圧を間近にした、波の高い日だった。かなり沖の方で赤いウエットスーツが波に飲まれる。しばらくたっても頭が浮いてこない。転倒の際、ボードで頭を打ったのか。
浜でそれを見ていた若い女が、赤銅色に日焼けした逞しい男に声をかけると、猛然と海に飛び込んで行った。
「ボードっ!」
男が女に向かって叫んだが、聞こえていなかった。軽率な行動だった。救出の際、ボートは海上の担架として使えるのだ。
赤いウエットスーツは、今年サーフィンを始めたばかりの、女の親友だった。女は動転していた。男は自分のボードを掴むと女を追って駆け出した。
男はボードを浮かべたまま、一瞬呆然とした。ほんの少しの間目を離した隙に、女と女の親友を見失っていたのだ。
元々水泳選手だった女は、普段から驚くほどの速さで沖へ出て行く。男は赤いウエットスーツが波に飲まれるところを見ていない。
波の間に見え隠れする人間の頭を捕らえるのは難しい。ましてや、熱帯低気圧による高波だ。男は完全に目標とする座標を失っていた。
それでも男は、女が浜に残した足跡の延長線上へ漕ぎ出した。男は、波を越える際に素早く周囲を見渡し、女と赤いウエットスーツを探した。何度目か波の頂点を越えるときに、ちらりと女の頭を確認した。
「冴子っ!」
波の頂上に達する度に、男は叫んだ。しかし、声は届かない。
「畜生!」
水を漕ぐ腕に一層の力を込める。
あと十五メートルの距離まで女に追いついたとき、女は弱々しくもがいている赤いウエットスーツに取り付いた。
「正面からは駄目だっ!」
焦りで男の体は熱くなる。溺れている人間に正面から近づくと、予想以上に強い力で抱きつかれて、身動きが取れなくなるのだ。
二つの頭が、波間に消えた。瞬間、目を閉じたが、男はすぐさまボードを捨て、飛び込んだ。
浜に引き上げられたとき、二人の女はすでに息がなかった。
赤いウエットスーツの女は、額に酷い打撲を負っていた。しなやかだがしっかりと筋肉が付き、男に負けないくらい日焼けした女は、端正な顔に傷一つなく、まるで眠っているようだった。
男は二人の傍らに座り込み、固く拳を握って俯いていた。あまりに唐突な二人の死に、呆然として涙も出なかった。
男はこの日、最愛の妻とその親友を失った。
午後いっぱいを、男は浜で過ごした。太陽に焼かれながら本を読み、メキシコ産のビールを飲んだ。時々、海に入って火照った体を冷やした。
リトリーバー犬のためにバスタオルで小さなテントを作ってやった。妻の死後、こいつが男の相棒となった。
午後六時。ようやく陽も傾いてきた。男は体を起こすと、クーラーボックスを開けた。アイスピックで中の氷を砕き始める。氷は固まりのまま、アイスボックスに抛りこんできたものだが、すでに四分の三ほどの大きさになって水の中に浮いていた。
氷を砕くと、タオルに包んで持ってきたカクテルグラスを二つ、スポーツドリンクなどを入れるボトルをタオルを広げた上に置く。ナイフでライムの実を二つ、半分に割る。その一つを使ってグラスの口の周りを湿らせ、広口瓶の中の塩に突っ込む。グラスを軽く叩くと、スノースタイルができあがった。
ボトルに砕いた氷、マリアッチのテキーラ、コアントロー、先ほど割ったライムの汁を入れて蓋をすると、素早くシェイクした。できあがった液体を、スノースタイルの塩に触れぬよう、慎重にグラスに注ぐ。
マルガリータ。ロスのバーテンダーが、ハンティングの最中に銃の暴発で死なせてしまった恋人。悲劇のカクテル。
男は蓋を閉じたクーラーボックスの上に二杯のカクテルグラスを置いた。片方を手にして、もう一方に軽くぶつける。つかの間海に向かってグラスを上げると、二口で飲み干した。
二人で過ごした海。二人で過ごした時間。妻の命日にはそれを再現する。男の中で妻が生き続ける限り、二人の夏は終わらない。
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