死刑台のエレベータ
深夜であった。
細かい粒子の、霧のような雨が大気中に充満し、すべての物をじっとりと濡らしていた。
世田谷区瀬田。国道ニ四六からも環状八号線からも程近い場所にありながら、幹線道路を逸れると、驚くほどの静寂が支配している。立ち並ぶ邸宅の塀から突き出した木々の枝葉が、街灯の光を遮って、不気味な陰を濡れ光るアスファルト路面に映し出していた。
霧雨に煙った一点に、ぽつんと灯った光が見る見るうちに近づいてくると、細かい水の粒子を乱反射して、闇を真っ白に染めた。ライトが消え辺りに色が戻ると、それはありふれたホンダのアコードであった。色は濃紺だ。
アコードから、濃紺のコットンパンツに濃い茶褐色の皮ジャンパー姿で、手には同系色の皮のドライヴング・グラブをした男が降りてきた。ボクサーのように痩せて、しなやかな体つきであった。年齢や国籍を特定し難い、茫洋とした雰囲気が漂っている。髪に混じった僅かな白髪が、男の年齢が見た目ほど若くはないことを物語っていた。
男は静かにアコードのドアを閉めると、施錠し、通りの向かいにある古びた十二階建てのマンションに歩いた。その動きは無駄がなく、猫族のように軽かった。ネオプレーン・ゴムを貼ったブーツは、足音をほとんどさせない。さりげないが、鋭く周囲を観察する。その視線は、猛禽類のそれを思わせた。
エレベータを使って五階のフロアに降り立った男は、一番端の、邸宅が見渡せる部屋に入った。電燈は点けない。靴も手袋も脱がなかった。
部屋の中には何もなかった。窓際に折りたたみのパイプ椅子が置かれ、その上にはカール・ツァイス製の双眼鏡があった。椅子の傍らには、チェロのハード・ケースが場違いな存在を主張している。男は双眼鏡を取ると、約二百五十メートル向こうの、ある邸宅に焦点を合わせた。
御影石の土台に高いコンクリート製の塀を廻らし、さらにその上には高圧電流を流した鉄条網によって守られている。計算し尽くされた自然を演出する庭には、防犯用の赤外線センサーが至るところに張り巡らされている。
建物は鉄筋コンクリートの二階建て、全体的に窓の数が少なく、要塞のようなイメージだ。二階の中央に一際大きな窓が一つあり、邸宅の主の居室であることが窺える。その部屋は暗く、主が不在であることが分かる。
漆黒のロールスロイス・ファントムが邸宅に吸い込まれたのは、男が窓際に立って十五分後であった。門周りや玄関周辺に人の動きがあったかと思うと、大げさな武家屋敷のような門がガードマンによって開かれ、ロールスが玄関前に横付けされた。後部座席の上に傘が差し掛けられ、でっぷりと太った老人が玄関に歩いていく。
そこまで確認すると、男は双眼鏡から目を離し、パイプ椅子の上に置いた。チェロのハード・ケースを部屋の中央に運び、蓋を開いた。
中には狙撃用ライフルが納められていた。ウィンチェスターのモデル七〇の改造銃だ。ウレタンを刳り貫いた隙間に埋め込まれるように納められたライフルは、スコープの部分だけが大きく抉られていた。出し入れの際にスコープが影響を受けるのを防ぐためだ。
別の窪みには、三百メートルで五センチメートル以内にグルーピングできるように、男が手詰めした実包が五発、フォーム・ラバーに包まれて入っていた。弾頭は、鉛の弾芯にアルミ・キャップを被せたシルバー・チップだ。貫通力と破壊力を兼ね備えた、最強の弾頭だ。
男はスコープがぶつからないように、慎重にライフルを取り出すと、ボルト・アクションの機関部を三度作動させ、異常のないことを確かめた。空撃ちして、引き金の具合も確かめる。今までに何度も確認した事項であるが、何度でも繰り返す。
コットンパンツの右ポケットからコンドームのパッケージを取り出して、銃口に装着し、輪ゴムで縛り付けた。天候が天候だから、銃口に水が浸入するのを防ぐためだ。コンドームを装着したまま発射しても、着弾に影響は出ない。パッケージの滓は再びポケットに戻した。
銃を裏返しにして弾装の裏蓋を開き、実包を四発詰めた。ボルトを操作して、第一弾を薬室に装填した。さらに裏蓋を開いて一発補弾し、五連発とした。安全装置をかけて、スコープを気遣いながらハード・ケースに納めた。
窓辺から邸宅を窺うと、主の部屋の明かりが灯されたところであった。狙撃の心配などまったくしていないのだろう。カーテンが引かれる気配はなかった。たとえ防弾ガラスを使用していたとしても、この距離ではライフル弾は薄紙のように貫通してしまう。所詮、防弾ガラスが防げるのは、拳銃弾くらいのものなのである。
男は双眼鏡を皮ジャンパーのポケットに突っ込むと、チェロのハード・ケースを右手に提げて部屋を出た。玄関のロックを施錠する。
エレベータに乗ると、屋上を示すRのボタンを押す。
蛍光灯の光に照らされた男の顔にふっと笑いが浮かんだ。形の良い唇がすぼめられ、マイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベータ」の物悲しいメロディが流れ出てきた。視線は登って行く階数表示のランプを見つめている。
屋上のエレベータ・ホールは、照明が消されていた。男はエレベータを一階に戻し、暗さに慣れるまでドアの脇に佇んで待った。「死刑台のエレベータ」のメロディはまだ続いている。
口笛が止むと、屋上へ続く扉が開かれた。男の体を霧のような雨が包む。
猫のような身のこなしで、邸宅のある方角へ歩いていく。鉄柵のところまでくると、双眼鏡を取り出して主の部屋を窺う。レースのカーテンの向こうで、ブランデーグラスを手にテレビを観ている、でっぷりと太った老人の姿が見えた。
鉄柵とマンションの縁との間には、ニメートルほどの余裕がある。男は双眼鏡をポケットに突っ込み、鉄柵の向こう側へ静かにチェロのハード・ケースを下ろすと、音もなく鉄柵を飛び越えた。ハード・ケースの蓋を開くと、銃を取り出す前に皮のドライヴィング・グラブを脱いだ。その下には、手術用の薄いゴム手袋をしていた。ドライヴィング・グラブはパンツの左尻のポケットに突っ込んだ。
邸宅のでっぷりと太った老人は、体の右側を男に向けて座っていた。男はライフルの銃床を左肩に押し当て、右上腕部にスリングを巻き付けるようにして銃身を支えた。
縁から五十センチメートルのところで、左膝を折りたたむようにしゃがみ込み、膝撃ちの体勢に入る。左目でスコープを覗きながら、安全装置を解除した。
スコープの十文字線を、邸宅のでっぷり太った老人のこめかみに合わせる。しかし十文字線は、男の掌を伝う脈拍や呼吸で、震える。男は口で呼吸し、射撃になるべく影響を与えないようにする。そして、静かに十文字線が静止する瞬間を待った。
十文字線が静止する瞬間は、銃を構えて十五秒ほどで訪れた。男は静かに引き金を絞り込んだ。 衝き抜けるような発射音と共に、銃身の周囲の霧雨が一瞬白く蒸発する。銃口のコンドームは、溶けて銃口部分に貼り付いている。
素早くボルトを操作して、次弾を薬室に送り込みながら、スコープを目標に戻す。窓にはぽつんと小さな穴が開き、でっぷりと太った老人がアームチェアごと横倒しに倒れていた。倒れる前に頭があった向こう側の壁には、血と脳漿がしぶきのように飛んでいる。
巻いていたスリングを素早く解くと、男は銃をハード・ケースに納めた。排出された空薬莢を踏みにじって、皮ジャンパーの右ポケットにしまう。
皮のドライヴィング・グラブを着けると、ケースを柵の向こう側へ置き、柵を飛び越える。ケースを右手に提げると、非常階段を足音も立てずに駆け下りた。
アコードのトランクをキーを使って開くと、チェロのハード・ケースをしまった。大きな音が立たないよう、押しつけるようにトランクの蓋を閉じる。運転席側のロックを解錠すると、男はしなやかに乗り込み、静かにドアを閉めた。
エンジンをかける。男はヒーターを最強にして、アコードを静かにスタートさせた。
アコードが環状八号線に出て、高井戸方面へ走り出してしばらくすると、狂ったようにサイレンを鳴らした警察車両の群とすれ違った。警察車両の赤いライトが男の無表情な顔を照らすが、その表情は動かなかった。
男の形の良い唇がすぼまり、再び「死刑台のエレベータ」の物悲しいメロディが流れ出てきた。
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