脱走


 もう、何時間ジャングルを歩きつづけただろうか。

 僕が生まれた国から遠く離れたアジアの国で、国境を巡る戦争が始まったのは、僕が中学三年のころだったから、もう四年間も続いていることになる。詳しくは知らないけれど、国境線になっている大きな川の領有権を互いの国が独り占めしたいみたいだ。言ってみれば、お互いが川の向こう岸までが自分の国なのだと主張してるんだ。

 国土も広く、経済的にも軍事的にも恵まれて「世界の警察官」を自認している僕の国は、一方の国に軍隊を送り込み、戦争の早期解決を目指した。とはいっても、本当のところはもう一方の国に僕の国が「仮想敵国」としている国が肩入れしていたので、その対抗手段を取っただけのことなんだけど。

 はじめはごく少数の兵士たちが派遣されているだけだったのに、まったく違った気候風土や敵のゲリラ戦法に手を焼いて、戦争はなかなか終わらない。軍隊の派遣を始めて一年も経ったころには、僕の国は何万人という兵士を派遣するようになっていた。

 僕の父さんは陸軍の将軍で、戦争が始まって以来ずっと前線で活躍している。一番上の兄さんは、陸軍の少佐だったけれど、はじめの年に戦死した。ニ番目の兄さんは、空軍で戦闘機に乗っている。

 僕の家は、曾お祖父さんの代からずっと軍人一家だった。歳の離れた僕は、ようやく高校を卒業した今年、否も応もなく志願させられてこのジャングルに送り込まれた。

 でも、僕は軍隊になんか入りたくなかった。本当は詩を書いたり、絵を描いたり、本を読んだりしていたかった。運動は苦手だし、喧嘩なんて生まれてから一度もしたことがないんだから。そんな僕に父さんも兄さん達も冷たかった。中学生になったときから、毎朝ニマイルのランニングと腕立て伏せ百回を課せられた。雨の日も、風の日も、休むことは許されなかった。

 中学、高校の六年間で、僕は二マイル休まず走り切れたことはなかった。腕立て伏せだって三十回しかできなかった。要するに、やる気がなかったんだ。

 そんな僕が軍隊に入って、戦争をする? 高校の友達の中には、大学へ行くからという理由で軍隊に入らなかったやつらがいた。心底羨ましかった。僕も大学で文学の勉強ができたらどんなに楽しかっただろう。でも、父さんも母さんも、僕が高校を卒業したら軍隊へ入れることに決めていて、僕の希望なんかまったく聞いて貰えなかった。

 戦争は国境全体に広がっているけれど、ジャングルのある山岳地帯の戦場が一番過酷なんだそうだ。僕の配属がそこに決まると、父さんは喜んだ。遠いアジアからわざわざ電話をかけてきて、こう言った。

「ジョンよ、最も過酷な戦場で戦うということは、お前の今後を考えても、非常に重要な意味を持つだろう。お前は、きっと強い人間となって帰ってくるはずだ」

 その前に死んじまうよ……。これが僕の正直な思いだ。

 このジャングルに来て半年経っても、僕は猛烈な湿気にも、百足や蚊や蟻なんかの虫にも、蛇にも、動物にも一向に慣れることはなかった。乾いた風が吹く都会で生まれ育った僕にとって、ここはあまりにも過酷な環境だった。

 ましてや戦争だ。見知らぬ人、何の恨みもない人を殺さなきゃならない。仲間はたくさん死んでいく。ベテランの兵士達からは、ことあるごとに虐められた。

 初めて人を殺したときのことは、今でもはっきり覚えている。

 小隊長のホーキンス軍曹は、十五年も軍隊にいる超ベテランだ。彼は「初体験」はナイフに限る、と言ってニヤリと笑った。最初の出撃で、僕らは国境を超えたジャングルで、敵を待ち伏せすることになった。どんよりと曇って、今にも降り出しそうな日だった。

 基地を出発して、一時間もしないうちに大粒の雨が降ってきた。慣れないジャングル歩行と泥濘で、僕は一マイルも歩かないうちに汗だくになって、フラフラになってしまった。それでも、歩かなくちゃならない。少しでも遅れると、バスケス伍長の容赦のない蹴りが尻に飛んでくる。

 それでも、小休止を何度か挟みながら四時間後には、待ち伏せ地点に到着した。腰に吊った二つの水筒のうち、一つはもう空になっていた。最後の一つも半分しかない。あれほどバスケス伍長から飲み過ぎるなと言われていたのに。

 獣道のような細い道の両側に、僕らは身を隠した。あれほど降っていた雨は、嘘のように上がって、樹木の隙間からは丸い月が見えてきた。ものすごい湿気で、スチームバスの中にいるようだった。

 隊の両端にはバスケス伍長とサンチェス曹長がいる。二人はホーキンス軍曹に負けないくらいのベテランで、どちらも小柄だけどよく日に焼けていて、すごい筋肉をしている。僕は密かに、バスケス伍長をブロンドのゴリラ、サンチェス曹長をブルネットのゴリラと呼んでいる。

 バスケス伍長の並びに僕と太っちょジェームズ。彼は出身は遠い海辺の街とはいえ、僕と同い年だ。そしてケイン伍長。彼はせっかく大学に進んだというのに、中途で辞めて志願した。口数は少ないけれど、とても優しい人だ。

 サンチェス曹長の並びには高校の同級生のジョージ。こいつとはクラスも同じで、同じ小隊に配属になったときは二人で大喜びしたものだ。フットボールのワイドレシーバーで、気性もさっぱりしたナイスガイだ。そして二つ年上のサイモン。背も小さく、痩せていて何をやらせてもだめなくせに、いつも兄貴風を吹かすとっても嫌なやつだ。

 ホーキンス軍曹は僕とジェームズの後ろにいたり、ジョージとサイモンの後ろにいたりする。でも、とても素早く、静かに動くので、いつ軍曹が僕の後ろに来たのか全然分からない。

 敵のパトロール小隊の先頭が、僕らの小隊のどちらか一方の端に来たとき、クックックという鳥の鳴き声がする。そして、もう一方の端に敵が達したとき、つまり、僕らが隠れているエリアに敵がすっぽりと納まったときに、もう一度鳴き声がする。それが戦闘開始の合図だ。鳴き声を出すのは、バスケス伍長とサンチェス曹長だ。敵の規模が中隊だったり、大隊だったりしたときは、二度目の鳴き声はしない。

 ホーキンス軍曹からは、二度目の鳴き声が聞こえたら、目の前にいる敵を教えられたとおりにナイフで襲え、と言われている。教えられた通りというのは、後ろから喉を切るか、背中から心臓を刺すか……ということなんだけれど、僕にはとても上手くできそうにない。人をナイフで襲うなんて……。

 ブッシュの中で蹲っているのは、本当に苦痛だった。百足が靴の上を歩いていき、たくさんの蚊に体中を刺された。ちょっとでも身動きすると、ホーキンス軍曹が音もなくやって来て、そっと耳元に囁くんだ。

「お前のために小隊全体を危険に陥れるつもりか? ジョン・ボーイ。そんなにでかい音を立てたら、敵を見つける前にこっちが見つかっちまうだろう。寝るな。動くな。音を立てるな」

 僕だけじゃなく、ジェームズやジョージ、サイモンもホーキンス軍曹の「夜襲」を受けている。無理もない。僕らは初めての出撃だったし、滅茶苦茶な悪条件の中の行軍で疲れ切っていた。時間は日付が変わってニ時間も経っている。

 でも今考えてみると、ホーキンス軍曹の「夜襲」は、僕ら新兵を必要以上に緊張させないための行為だったんだと思う。ずっと一人でブッシュの中に蹲っていたら、きっと僕は緊張に耐え切れなかっただろうと思うんだ。

 合図の鳥の鳴き声が聞こえてきたとき、はじめて僕は自分がどうにもならない状況に追い込まれているのを自覚した。そっと腰のナイフに手をやってけれど、柄を掴んで抜き出すことがなかなかできない。手が震えているんだ。

 意を決して引き抜くと、僕は固く柄を握り締めた。

 手を伸ばせば届くほどのところを、敵の兵士が通り過ぎて行く。心臓が喉から飛び出しそうなほどの勢いで、激しく脈打っている。その音が敵に届くんじゃないかと思えるほどに。

 とても息苦しいんだけど、息ができない。

 もう、我慢の限界だ!

 クックック。

 夢中で目の前の敵に抱きつくような格好で飛びついた。耳の中がジンジン鳴っている。周りの音は聞こえず、敵の後頭部しか見えなかった。

 気付くと僕は、倒れた敵の上に覆い被さるようにしてナイフを押しつけていた。固く握り締めていた手は、なかなかナイフから離れなかった。左手で右手の指を一本一本剥がして、やっと体を起こした。

「どうだ、ジョン・ボーイ。殺しなんて、やってみればあっけないもんだろう。童貞を棄てるのと同じようなもんだ」

 ホーキンス軍曹が話しかけてきた。

 僕は自分の手を見つめていた。

 自分が殺した敵の血でヌルヌルする手を。

 僕は人を殺してしまった。

 でも思い返してみると、僕の体は合図と同時に動いていた。僕の気持ちとは裏腹に、ごく自然に動いていた。それに気付いたとき、僕は猛烈な吐き気に襲われた。自分を嫌悪した。胃の中には何もなくて、苦い胃液しか吐き出すことはできなかった。

 その後の戦闘でも僕の体は勝手に動きつづけた。ナイフでも銃を使ってもホーキンス軍曹が驚くほど、僕は急速に戦士として成長した。

 敵を一人殺す度に、自分が興奮していくことを自覚した。

 僕は人を殺すことに楽しみを覚えるようになってしまったんだ!

 二度目の出撃では、敵との激しい銃撃戦となった。ここで気が変になったサイモンが、銃弾の飛び交う中に飛び出して、敵からだけじゃなく味方からも弾を食らって死んだ。もう一人、太っちょジェームズも死んだ。銃撃戦が終わったとき、頭を撃ち抜かれて死んでいるのが分かったんだ。

 三度目の出撃では、基地に帰る途中でケイン伍長が敵のブービートラップにかかった。深い落とし穴に毒を塗った竹槍が植えてあって、助け出しても基地まで保ちそうになかった。ホーキンス軍曹は黙ってケイン伍長の心臓を撃った。これ以上苦しませないために。

 仲間がどんどん死んでいき、その度に新しい仲間が補充されてくる。でも、僕はもう誰とも親しくなろうとは思わなかった。誰が、いつ死んでもおかしくないから。

 四度目の出撃では、僕の最後の友達だったジョージが死んだ。敵の迫撃砲の直撃で、木っ端微塵になってしまった。僕の二十フィート前でのことだった。

 いつの頃からか、死んだ仲間達が夢に出てくるようになった。楽しそうに笑いながら、何発もの銃弾を浴びたサイモン。百舌鳥の生贄のような格好で、哀しげに見上げてきたケイン伍長。目を見開いて、吃驚したような表情のジェームズの死に顔。僕の目の前まで飛んできた、ジョージの左手……。

 不思議と戦場で眠るときは夢を見ない。僕は、ベッドの上で眠ることができなくなってしまったんだ。

 そして、僕を最も苦しめたのが、自分の考えている事とやっている事のギャップだった。人を殺し続ける自分を憎みながらも、その快感に浸り切っている。頭が変になりそうだった。

 国境線上にある丘をめぐる大規模な戦闘の最中、僕は闇と混乱に紛れて逃げ出していた。もうこれ以上、この馬鹿げた行為を続けていられなかった。気が付いたら戦場から離れて、国境の川の辺を海に向かって歩いていた。

 喉が乾いた。

 夜が明けて、陽射しがジャングルを照り付けている。直射日光は避けられても、気温はぐんぐん上がっていき、腐葉土や様々な植物の臭いを含んだ強烈な湿気が漂っている。そして僕自身に染み付いた血と硝煙の臭い。

 疲労と空腹、喉の渇きで何も考えられなくなってきた。意識も朦朧としてきて、今にも倒れそうだ。

 気付いたときは、何かに躓いて前のめりに倒れていた。起き上がろうとしたけれど、背中に重石が乗っているように体が言うことを聞かない。

「ジョン・ボーイ」

 聞きなれた声だ。

「ジョン・ボーイ。やっと見つけたぞ」

 ホーキンス軍曹の声だ。

 意識が急速に戻ってきた。僕は躓いたんじゃない。軍曹に膝の裏を蹴られ、今は背中を踏みつけられているんだ!

 暑さとは違う、冷たい汗が吹き出てくるのが分かった。僕は顔だけ横に向けて、軍曹を見上げた。そこには、何の感情も浮かんでいない軍曹の顔があった。

「どうした。何を驚いている? 俺がここにいるのが、そんなに不思議か?」

 軍曹は僕の銃やナイフを取り上げると、脚を退かして前に回り込んできた。

「お前の兄貴はな、俺と同じ部隊にいた」

 軍曹は静かに話し始めた。

「四年前の二月だった。俺達は敵に囲まれて、大変なピンチに陥っていた。無線で応援は呼んでいたが、時間を稼がなきゃならない。そんなとき、部隊の真中に適の手榴弾が放り込まれたんだ。一瞬、凍りついたね。しかし、お前の兄貴は落ち着いていた。投げ返す時間がないと判断するや、手榴弾の上に覆い被さったのさ。それで俺達は、助かった」

 僕は、言葉もなく見上げていた。兄さんの最期のことは全然知らなかった。ましてや、ホーキンス軍曹と戦友だったことも。

「俺はな、お前の親父さんから直接指令を受けたんだ。それも、個人的な指令だ。本来なら、俺はお前を連れ帰って軍法会議に掛けなきゃならない。しかし、俺はこの場でお前を殺す。それが親父さんから受けた個人的な指令だ」

 父さんの顔も浮かばなかった。彼なら平然とそういうことを言うだろう。血筋をきれいにしておきたいんだ。僕よりも軍人としての家系を守りたいんだ。

「俺には断ることはできなかった。お前の兄貴に命の借りがあるんでな。死んだ人間には返せないが、その親父さんに返すことにする。悪く思うな」

 言って、軍曹はライフルの銃口を僕の額に当てた。

「お前は、昨晩の戦闘で戦死したことになる。記録上はな。何か言っておくことはないか?」

 軍曹の目を見て言った。

「これでよかったんだと思います。僕はこのまま生きていけば、人間として壊れてしまうと思うからです。軍曹、ご迷惑をお掛けしました」

 本当に何も思い残すことはなかった。父さんの考えも分かったし、もうこれ以上自分が自分でいる自信もなかった。

 静かに目を閉じた。銃声が聞こえた。


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